今年2014年はオクタビオ・パス生誕100周年の記念年だ。とりわけ、3月31日は彼の誕生日で、ここ一週間ほどは、どこもかしこもオクタビオ・パスという感じだった。
ミゲル・アンヘル・ケベード沿いにあるFCEオクタビオ・パス店は新装開店を経て、売り場がひとつ上の階に移動し、随分と店内が明るくなっていた。レジ前にオクタビオ・パス特集コーナーが設置されていて、関連書が平積みされていた。詩の朗読会も催されていたみたいだ。メトロに乗っていてもホームにでかでかとポスターが張られていたり、バスに乗っていても車内のテレビでパスの詩が紹介されていたり、街でパスの顔を見かけない日は無いと言っても過言ではなかった。
メキシコ人にとって、メキシコ文学の父といえば他ならぬ彼のことであり、中学だか高校だかでみんな『孤独の迷宮』には目を通すそうだ。友人に聞いたところ、やはりパスは随筆の作家というイメージが強いようで(小説ならカルロス・フエンテス、短編ならホセ・エミリオ・パチェーコ、詩ならハイネ・サビーネスだと言っていた)、El arco y la lira、La llama
doble、El laberinto de la soledad、Piedra de sol、¿Águila o sol?、この5冊はメキシコ文学を語るうえで欠かせない重要書だと力説していた。
少し前にUNAMでも記念講演会があって、行ってきた。左派としてのパス、ラテンアメリカの作家と社会主義国との関係(マルケスとキューバ、コルタサルとニカラグア、ネルーダとソ連など)、トラテロルコ事件以降のパス、帝国主義とパス、インド思想とパス、など複数のパネリストがそれぞれの視点からオクタビオ・パスを語っていた。そのうちの一人が、「ラテンアメリカの世界における思想家は4人しかいない」と述べ、シモン・ボリバル、ホセ・マルティ、オクタビオ・パス、カルロス・フエンテスの名前を挙げていた。No dejar a Paz en pazなんて、少し笑いを誘う言い回しもあった。
そして今日はCineteca
Nacionalでパスに関連する映画の上映会があり、行ってきた。入場は無料だった。太っ腹。1本目のHomenaje a
Octavio Pazはパスの独白と、何人かの作家と研究者(サルバドール・エリソンドやカルロス・モンシバイス、いわゆるカサ・デル・ラゴの作家たち)へのインタビューを交互に挟んだドキュメンタリー形式のもの。続く2本目はスウェーデンのテレビ番組として撮影されたPiedra de sol。パスの同名の詩に映像を付けたものだ。そして3本目のフィルムは、パスとフエンテスによるアルフォンソ・レイエスについてのインタビュー。上映の合間に監督による説明と質疑応答の時間があった。監督は、フランスで大使の職を持っていたという3人の共通点を指摘しながら、それぞれが3つの連続した世代を代表するメキシコの作家であると述べていた。確かに、1889、1914、1928と生まれた年がある程度の間隔で並んでいることに気づかされたのだった。
街に飽和しているパスが夢に出ないうちに、こうして悪魔祓いをしておこうとなんとなく思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿