2015年9月30日水曜日

こころのなかにかみさまをもつこと


 J.D.サリンジャー(1919−2010)はニューヨーク生まれの米国作家。『ライ麦畑で捕まえて』(1951)や『ナイン・ストーリー』(1953)は青春の必修科目的な読みものとしてあまりにも有名。そんなサリンジャーの『フラニーとズーイ』村上春樹訳(新潮社)を入手した。『ナイン・ストーリー』の短編のひとつ「バナナフィッシュにうってつけの日」にはシーモア・グラースという人物が登場するが、フラニーとズーイは彼の末妹と末弟だ。



 『フラニーとズーイ』は2部構成になっている。第1部が「フラニー」。駅のプラットフォームでレーンという青年が、恋人フラニーからのラブレターを読みながら、彼女を待っている。しかし、到着した彼女はなにやら虫の居所が悪い様子で、レストランに行っても何かとレーンに突っかかる。ふたりのあいだには険悪な雰囲気が漂い、とうとうフラニーはトイレに行こうと席を立ったときに失神して倒れてしまうのだが、筋としてはこれでおしまい。この「フラニー」は100ページにも満たない部なのだが、この時点では「ああ、いつものサリンジャー節だな」といった感じ。

 第2部が「ズーイ」。ページ数としては「フラニー」の3倍ほどだろうか。バスタブに浸かって煙草を吸いながら、手紙を読んでいるズーイ。それは山奥に閉じこもって世捨て人のような生活を送っている長兄バディーからの長い手紙であった。そこに母ベッシーが闖入してきて、フラニーが部屋に閉じこもって出てこないと相談をする。母親の小言に適当に相づちを打ちながら、バスルームから出たズーイはフラニーの部屋へ向かい、妹に忌憚なくお説教を食らわせる。どうやらフラニーは何か宗教的な悩みから、半鬱状態に陥っているようだ。フラニーが泣き出し、ズーイを部屋から追い出す。少し経って、グラース家の電話が鳴り、受話器をとったベッシーがフラニーにかわる。それはズーイが兄バディーのふりをしてかけた電話であった。通話の途中でフラニーは話している相手がズーイであることに気づく。ズーイはかつてシーモアが自分に話してくれた「太ったおばさん」の話をフラニーにして、電話を切る。

 筋だけを追えば、なんのことだか分からない小説だ。特に「ズーイ」は宗教的な問題を兄弟がああでもない、こうでもないと話しているだけで、スッと飲み込めるような内容では決してない。にもかかわらず、飽きることなく読めてしまうのはサリンジャーの巧みな手腕によるものだろう。というか、サリンジャーの小説にはまともな筋があった試しなんてないような気がする。小説全体にもやっとした雰囲気が漂うなか、ズーイの「人間がみんな鉄でできているなんて思っちゃいないよ」という台詞でサッと視界が晴れるような感覚は快感だ。ありていに言えば、破天荒で口の悪い兄ちゃんが、喧嘩ばかりしている妹のことを、それでも心配していたという結末になるだろう。

 ちなみに、サリンジャーは自分の作品の映画化を拒否しているばかりか、翻訳に解説をつけることすら許していないのだけれど、この文庫版には村上春樹のブックレットのようなものが挟んであり、そこで訳者は冒頭の駅の場面とズーイがバスタブに浸かっているシーンが印象的だったと語っている。

 「なぜ、ひとは(特に多感な時期の若者は)サリンジャーを読むのだろう」という問いにささやかに答えるような一作だ。こころのなかにかみさまをもつこと。