2015年12月20日日曜日

ガボが死んだ日


 「ガボ」ことガブリエル・ガルシア=マルケスは2014年の春、メキシコで客死した。長年アルツハイマー病を煩っており、もう新作は書けないだろうと言われていた。肺炎(?)の手術から復帰したというニュースが伝えられ、誰もが胸を撫で下ろした矢先の死だった。

 ガボが死んだとき、ぼくもメキシコにいた。確か、あれは聖週間の最中だったと思う。メキシコシティでは不穏な天気が続いていて、スコール、雷、雹、暴風、それにともなう停電や断水があり、ぼくは家に閉じこもって夕方まで寝ていた。目を覚ますと、ガボの死がいたるところで報じられていた。同居人のドイツ人が買い物から帰って来たので、彼と少しだけ、ガボの話をした。そうこうしているうちに気づいたのは、ぼくが抱いている感情が「悲しみ」とはほど遠いものであるということだった。ガボの死に際してぼくが真っ先に感じたのは「違和感」だった。ぼくがラテンアメリカ文学に触れ始めたのは、たぶん2012年の後半だったと思う。マリオ・バルガス=リョサが来日したときや、カルロス・フエンテスが死んだとき、ぼくは彼らの名前すら知らなかった。大学の講義でガボを紹介され、『百年の孤独』を読み始めたのがそのころだった。小説を通して知ったガボは、ぼくにとって紙の上の存在でしかなく、どちらかといえばフィクションに近い存在だったのだと思う。それでもガボは死んだ。その訃報がメディアに取り上げられて、ぼくはある種の眩惑を覚えた。言うなれば、現実とフィクションの境界がにわかに歪んだ感覚に陥ったのだった。


 ガボの死から一週間後、ベジャス・アルテス宮殿で葬儀が行われた。メキシコ人の友人に連れられて行ってみると、すでにそこには長蛇の列ができていた。隣に並んでいたいおじさんはずっとガボの住んでいたペドレガル地区の歴史を話して聞かせてくれた。遠くでは作家のハビエル・ベラスコがテレビの取材に受け答えをしていた。ぽつぽつと雨が降り始めると、いつものようにどこからともなく売り子がやってきて、商魂たくましく傘や合羽を行列に売りつけていた。

 4時間ほど並んだころ、列の動きが止まった。周りの話を盗み聞きすると、どうやらペーニャ・ニエト大統領がやってきて、ガボの遺灰の前で演説を行っているらしい。友人は「Así es México.(これがメキシコだよ)」と言って笑っていた。しばらく経って、列が再び動き始めたころ、あたりはもう暗くなっていた。ぼくらはもう宮殿の入り口近くまで来ていた。ふいに、建物のほうから歓声があがった。視線を上げると、ライトに照らされた黄色い蛾が空一面、ひらひらと舞っていた。それはかつてマコンドを覆い尽くした、あの蛾になぞらえて切られた大量の黄色い折り紙だった。しばし人々は疲れを忘れ、列を乱して、蛾を追いかけまわした。「Así es México, también.(これもまた、メキシコだね)」と言ってぼくらは笑った。

 すべての蛾はもはや重力に負け、その死骸は地面を黄色く彩った。興奮冷めやらぬうち、列の前方がざわめきだした。どうやら大統領が、ガボの遺灰を持ち去ったらしい。明日、母国コロンビアで行われる弔事に間に合うよう、今夜中に空輸しなければならないのだという。にわかに群衆は暴動と化した。列はぐいぐいと進み、人の波に流されて、ぼくらは守衛の立つ宮殿の入り口に漂着した。沸き立つ怒号は、次第に統一された歌に変わった。「Queremos ver a Gabo, Gabo, Gabo...(ガボに会わせろ、ガボ、ガボ……)」

 結局、列は半ば押し入るようなかたちで宮殿に足を踏み入れた。宮殿の階段下には引き延ばされたガボの肖像写真があり、その横にはフィデル・カストロからの献花が供えられていた。分かっていたことだが、すでにガボはそこにいなかった。参列者は立ち止まることを許されず、それらを視界の隅で確認するのが精一杯だった。宮殿を出ると、庭では子供たちが黄色い蛾の死骸を巻き散らかして遊んでいた。ぼくと友人は駅前の屋台でトルタを食べ、地下鉄で帰った。