2015年7月6日月曜日

フリオ・コルタサルと<ブーム>


 <ブーム>を語るフリオ・コルタサルのインタビュー。出版社や文学賞の存在がラテンアメリカ文学の<ブーム>を形成するのに一役買っていたという意見が支配的である一方(それはそれで、その通りだとは思うが)、当事者であったコルタサルはそれを真っ向から否定している。こんなに声を荒げて力説しているコルタサルは珍しい。「我々は独りで書いたんだ!」のあたりに、なんというか、作家コルタサルのある種の矜持のようなものを感じる。

以下は拙訳。

<ブーム>という用語は英語に由来するものであり、その嘆かわしい「弱さ」は政治的に大変意味深いものだと言える。私は<ブーム>は偶然の産物に過ぎなかったと考えている。歴史において、偶然は論理よりも実にうまくことを運ぶものである。ラテンアメリカが帝国主義によって支配されていたあの時代に、たまたま数人の卓抜した作家が誕生し、多くの作品を残した。その結果として大陸全土に、突如ある意識が生まれたのである。<ブーム>は出版社の術策の産物でもあった。出版業界は<ブーム>に向けてプロモーションを投げかけたのだ。私はその<ブーム>の登場人物のひとりでもあるので、そのことについて話す資格はないかもしれないが、私の作品は孤独と貧しさの中で、出版社によるわずかほどの援助も無しで書かれたのだということは言える。私の本、フエンテスの本、ガルシア=マルケスの本、バルガス=リョサの本が膨大な数の人間によって読まれ、人から人へと手渡されているということに気がつくやいなや、すぐさまこれらの作家の作品は出版する必要があると理解して彼らは飛びついて来たのだ。編集者も馬鹿ではなく、金を稼ぐためにいるのだからね。彼らが我々を開拓したことはなかった。我々は独りで、しかもラテンアメリカから遠く離れた土地で作品を書いたのだ。ガルシア=マルケスも、バルガス=リョサも、アストゥリアスも、そして私も遠く離れた土地で書いた。編集者の友人もいなければ、出版社もなかった。出版社は後からついてきたのだ。それは<ブーム>がプロモーションの目的で作られた産物であったと主張する、現実を歪める企てであった。なぜなら、そのプロモーションのうち、ひとつとして作家や文学を救ったものなどなかったのだから。大きな宣伝をすれば、本を売り出すことくらいはできる。しかし、本それ自体にそれだけの価値がなかったのならば、それがどのくらい続くというのだ?
 <ブーム>と呼ばれる現象が私にもたらしたもので、喜ばしいことがふたつある。まず、我々の作品が初めて同国人によって読まれるようになったということだ。私自身、ラテンアメリカの作家を読まなかった世代に属している。ボルヘスやロベルト・アルルトといったわずかばかりの作家はいたが、意識はヨーロッパに向けられていた。我々が読んでいたのはグレアム・グリーン、フランソワ・モーリアック、ヘミングウェイといった素晴らしい作家たちの最新作だった。しかし、我々の現実に対しては背を向けていた。<ブーム>と呼ばれた10年間で、数百万ものラテンアメリカの人間が目を覚まし、自分たち自身に自信を抱くという素晴らしい事実に気づくことになった。なぜなら、もし私がアルゼンチンの作家に自信を持っているのならば、それは私自身にも自信を持っているということに他ならないのだから。私は社会、文化、歴史的リズムの一員として自信を抱くようになった。そうして、我々は突如として我々自身の作品を読んでくれる大陸を手に入れたのだ。そのことはアイデンティティの追求という、革命的な兆候を意味していた。我々はラテンアメリカの人間であるということをますます自覚するようになったのだ。ダリーオは言った。「何百万の人が英語を話さないだろうか?」(元のフレーズは「何百万の人が英語を話すだろうか?」)「我々はスペイン語を話すだろう!」ふたつめはスペインに関係するものだ。スペインの人間が我々ラテンアメリカの作品を読むということは、私にとって本当に喜ばしいことだ。親愛の情を持って、兄弟愛を持って私たちの作品を読んでくれる。大変長い期間を経た後でのこの接触は実りの多いものだ。この接触は我々を再び、結びつける。スペインとラテンアメリカ諸国の差異を作り出したエルナン・コルテスやピサロはもはや必要ないのだ。今や我々は言語によって結びつけられただけの集合体なのである。そして、願わくば同じ歴史的運命によって結びつけられることを。