2017年9月4日月曜日

「崩壊」の感覚

 アテネ・フランセでパトリシオ・グスマンの特集上映が催されていた。いまのところ、日本で放映されているのは8作。製作年代順に並べると:

1975『チリの闘い 第一部 ブルジョワジーの叛乱』
1976『チリの闘い 第二部 クーデター』
1978『チリの闘い 第三部 民衆の力』
1997『チリ、頑固な記憶』
2001『ピノチェト・ケース』
2004『サルバドール・アジェンデ』
2010『光のノスタルジア』
2015『真珠のボタン』

今回観たのは『チリ、頑固な記憶』、『ピノチェト・ケース』、『サルバドール・アジェンデ』。初期の『チリの闘い』三部作と最新のチリ三部作(『光のノスタルジア』、『真珠のボタン』に続いてアンデス山脈を舞台に新作を撮る構想があるらしい)のあいだに発表された「回想三部作」である。

 言うまでもなく、いずれもチリの9月11日クー・デタを主題に据えたドキュメンタリーだ。作品の連続性は、随所に『チリの闘い』の映像が引き継がれていることからも明らかだろう。『チリの闘い』第一部のラストと第二部の冒頭で提示されるアルゼンチン人カメラマン、レオナルド・ヘンリクセンが銃弾に倒れるシーンはその一例だ。このカットは『サルバドール・アジェンデ』で再び引用されている。
 また、『チリの闘い』で最も幻想的な映像といえば、脚をぴんと伸ばした、男性か女性かも判然としない長髪の人物が荷車を引き、滑るように走っているシーン(写真参照)だろう。これも『チリ、頑固な記憶』と『サルバドール・アジェンデ』で再び登場する。

『チリ、頑固な記憶』Chile, la memoria obstinada では、『チリの闘い』を鑑賞する人々の様子が克明に映し出されているが、その反応は必ずしも画一的ではない。クー・デタをよく知らない若者たちのなかには、「人間にこんな残虐なことができるなんて」と泣きだす者もいれば、ピノチェトの行為を評価する学生もいる。ピノチェト肯定論者によれば、「彼はチリが内戦・分裂状態に陥るのを回避し、被害を最小限に食い止めた」のだと言う。グスマンは決して、ピノチェトを絶対悪の象徴として恣意的に演出しない。こうした点に、作品をアジェンデ賛美の単なるプロパガンダに落とし込むことなく、あくまでドキュメンタリー監督たろうとするグスマンの矜持がうかがえる。
 終幕部には、クー・デタ後に「行方不明」となったカメラマン、ホルヘ・ミューラー・シルバの話が出てくる。

 続く『ピノチェト・ケース』El caso Pinochet は、1998年、ジェノサイドの容疑でピノチェトがロンドンにて逮捕され、裁判にかけられた事件を扱っている。英国からの引き渡しを求めたのはスペインのフアン・ガルセス判事。アジェンデ政権下で政治顧問として働いており、クー・デタを逃れ、マドリッドに亡命した人物だ。この裁判の顛末は、アリエル・ドルフマン『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判——もうひとつの9・11を凝視する』(宮下嶺夫訳、現代企画室、2006)に詳しい。
 スペインとチリは政治的悲運という点で、根深い痛みを共有している。この「ピノチェト事件」の調査に着手したのは、カルロス・カストレサナなる人物であるが、彼は自身もまたフランキスモに虐げられた者のひとりであったと語る。スペイン内戦が終わり、フランコが政権を掌握したのちの1940年代初頭、チリはスペインから2500人もの難民を受け入れた。彼らをフランス大使館経由で亡命させたのが、当時外交官を勤めていたパブロ・ネルーダだ。
 なぜピノチェトが英国に滞在していたかという理由は、勾留中の彼をサッチャーが訪問する場面でつまびらかにされる。ピノチェトは自身が支配下におくチリ軍隊の武器をサッチャー政権下のイギリスから購入し、イギリスはフォークランド戦争でチリの支援を受けた。こうした1980年代の状況は、グローバル化経済の闇を浮き彫りにするものといえるだろう。
 また、グスマンが『チリの闘い』を撮影したフィルムを叔父イグナシオに託し、スウェーデン大使館経由で国外へと持ち出したという事実も、ここで語られている。

『サルバドール・アジェンデ』は、その名の通り、サルバドール・アジェンデの生涯を辿る伝記ドキュメンタリーだ。“El Chicho” と呼ばれた幼少期のアジェンデをよく知る Mama Rosa こと Zoila Rosa Ovalle の回想や、彼の思想形成に影響を与えたイタリア人アナキスト Juan de Marchi なる人物の情報が提示され、なかなか興味深い。実の娘イサベル・アジェンデ(作家のイサベル・アジェンデではない)とカルメン・パスも登場する。また、ここでは、レネ・シュナイダー将軍の暗殺が米国の支援のもと行われたものであったことなど、ニクソン政権下におけるCIAの暗躍が詳しく語られている。
 このフィルムで最も印象的なのが、多国籍企業の横暴を糾弾するアジェンデの国連演説だ。1972年に撮影された、カラーの映像である。同じ頃に撮影された、モネダ宮への空爆を含む『チリの闘い』や、カストロのチリにおける演説は、当然モノクロだ。こうした白黒映像の連続に、突如としてカラーの映像が挿入され、アジェンデの肉体性、そしてクー・デタの現実性がにわかに蘇る。この対比に、少なくともぼくはめまいを禁じえなかった。

 上映後には、太田昌国さんのトークがあった。『チリ、頑固な記憶』での学生たちの反応を取り上げ、「崩壊」の感覚がない人びとがその記憶を共有することの難しさ、およびその重要性を語った。
 当然、ぼく等はモネダ宮殿が「崩壊」する映像をリアルタイムで観ることがなかった。ブラウン管越しにベルリンの壁の「崩壊」や、ソ連の「崩壊」を目にすることもなかった。また、生まれてはいたにせよ、記憶には残らない90年代前半、日本で立て続けに流れた「崩壊」のイメージも、ぼく等の経験的記憶に存在していない。それでも、「崩壊」の記録——パトリシオ・グスマンの映像でも、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』でも、何でも構わないが——に触れることで、「崩壊」を擬似的にであれ追体験することは可能だろうし、それらはある種の既視感をぼく等に喚起することさえある。

 ぼく等の脳裏によぎる「崩壊」のイメージとは、もうひとつの9・11であり、あるいはその10年後の映像であるかも知れない。これが意味するのは「崩壊」のイメージが単独的には存在せず、連鎖的に結びつけられうるものであるということであり、そうである以上、1973年の映像はフィクションじみたものとして錯覚されるべきではないということだ。「崩壊」は、決して過去の遺物ではない。


2017年7月28日金曜日

サルトル「黒いオルフェ」メモ

「黒いオルフェ」(1948)はレオポルド・サンゴール編『ニグロ・マダガスカル新詞華集』の序文として書かれたサルトルの文章である。以下、内容のまとめと引用。

「われわれ」西欧人は、二度の大戦を経て、絶対的な審級を失ってしまった。本質的なものなど何もありはしない。「われわれ」が何者であるかを知るすべは一つ、それは「他者」であるニグロの目を通じて、「われわれ」を見つめ直すことである。

「それと言うのも白人は、相手に見られずに見るという権利を三千年にわたって享受し続けてきたからだ。白人は純粋な眼差しだった。[……]今日では、これらの黒い人びとがわれわれを見つめており、われわれの眼差しはわれわれ自身の眼に送り返されてくる。」(159

「かつて神権を有していたわれわれヨーロッパ人は、ここしばらく、アメリカやソヴィエトの眼差しの下で、自分たちの権威が崩れ去るのを感じていた。ヨーロッパはすでに地理上の偶然、アジアによって大西洋にまで押し出された半島にすぎなくなった。せめてアフリカ人の飼い馴らされた目の中に、自分たちの偉大さの片鱗を認めようとわれわれは望んでいたのだった。ところがもう飼いならされた眼はどこにもない。あるのはただ、われわれの大陸を裁く、野生の自由な眼差しだ。」(160)(つまり、眼差しを媒介とする、対他による対自の回復・復権とその頓挫。)

「私がここで示したいと思うのは、いかなる道を経てこの漆黒の世界に近づきうるかということであり、一見人種的に見える彼らの詩が、究極においては、あらゆる人間の歌であり、あらゆる人間のための歌であるということだ。」(162

「白人の労働者と同じく、ニグロもまたわれわれの社会の資本主義構造の犠牲者である。この状況は、皮膚の差を越えて、黒人が彼同様に抑圧されているある種の階級のヨーロッパ人と緊密な連帯関係にあることをあらわにする。」(164

黒人は詩体験を通じて自己を意識する。プロレタリアートはなぜそうではないのか? 理由は単純である。プロレタリアートは技術こそ、自己の解放の道具であると信じている。技術に関する用語は客観的であらねばならない。「〈物質〉は歌をうたわないのだ。」

けれども、プロレタリアートと黒人が犠牲者という点で同胞であるとしても、各々の事情は全く異なる。「白人の中の白人であるユダヤ人なら、ユダヤ人であることを否認し、自分も人間の中の人間であると宣言することができる。ニグロはニグロであることを否認することもできなければ、あの無色で抽象的な人類となる権利を要求することもできない。彼は黒いのだから。」(164

ヨーロッパの労働階級は、彼の状況の客観的性格(例えば、富の欠乏といった)によって被害者となっている。けれども、黒人が被害者であるのは、つまり差別の対象となっているのは主観的性格(つまり、心的印象)によってである。「従って、人種意識はまず黒人の魂の上に向けられる。」この黒人の思想と行為に共通する特質こそが、「ネグリチュード」と呼ばれるものである。

このように、黒人詩は主観性を帯びる。その目的はただ一つ、「黒人の魂を表明することだ。」(166

黒人は肉体と精神の両面で追放を被っている。肉体、すなわちアフリカ大陸からの追放と、精神、すなわち白人文化という壁からの追放である。かくして、ネグリチュードの詩人のうちには「祖国復帰」と「黒い魂」へのテーマが混ざり合っている。これをサルトルは、「オルフェ的」と呼んでいる。

ネグリチュードの主導者たちのジレンマ。それは、フランス語で彼らの福音を認めなければならなかったことだ。アフリカの各地から連れてこられた彼らにはフランス語以外の、共通言語がない。幼い頃から触れてきたフランス語は、外国語ではないにせよ、彼自身の魂をぴったりと言い当てることができない。しかし、この言語の蹉跌こそが、詩を生み出しうるのだ。「彼らが話す国語(langage)の内部にさえ抑圧者が姿を現す以上、彼らはこの国語を破壊せんがためにこれを話そうとするだろう。」(172

例えば、《黒と白》というような対になる表現を用いるとき、興味深いことが起こる。白人は潔白を意味するのに「雪のように白い」というだろう。卑劣さを「黒さ」と呼ぶだろう。このヒエラルキー(コノテーションといっても良い)を覆さぬうちは、黒人は常に自分を責めたてることになる。そして、この転覆が行われた時、それはすでに詩と呼ぶべきものになっているのだ。例えば、「潔白の黒さ」、「美徳の暗闇」といった具合に……

ここに至って、黒は色以上のものとなる。黒は悪全体、善全体を同時に含む。「白の持つ秘められた黒さ、黒の持つ秘められた白さというものがあり、存在と非存在の凍りついたきらめきがある。」(175

セゼールの詩はこのことを十全に語っている。「夜はもはや不在ではなく、拒否となる。」白い太陽の光を破壊する黒。こうしてニグロ革命家は、自身が否定そのものとなりおおせる。この闇の否定性こそが価値となる。「自由が夜の色となるのだ。」ニグロは、ネグリチュードの中で自分自身を発見し、そのものとなる。
エティエンヌ・レロへの批判。彼の詩法は、シュルレアリスムの模倣でしかない。「《骰子一擲》が存在の隠れた様相を引き渡してくれることを——さして信じもせずに——漠然と期待しながら、かけ離れた二つの表現のあいだに橋をかけようとするおきまりの手法である。」(179)(これはカルペンティエルが『この世の王国』の序文で行った指摘と重なる。)これはたかだか形式上の想像力の解放であり、せいぜい反対物の穏やかな統一といったものだ。

それに引き換え、セゼールの詩は一貫して、白人の文化を破壊する。白人のシュルレアリストが自己の内奥に寛ぎを見出すのに対して、セゼールが自己の内奥に見出すのは、頑として動かぬ復権要求と恨みである。「セゼールにおいて、シュールレアリスムの偉大な伝統は完成され、決定的な意味を持ち、同時に破壊される。」(181

重要なのは、セゼールが「詩が客体となることを欲求するシュールレアリスムの伝統を貫いている」ということだ。「セゼールの言葉は、ネグリチュードを叙述するのではない。指示するのではない。[……]彼の言葉はネグリチュードを作る。われわれの目の前でそれを構成してみせる。今やそれは、読者が観察し、学習しうる事物となる。彼が選んだ主観的方法はわれわれが先に語った客観的方法に合流する。他の詩人たちが黒人の魂を内面化しようとしているときに、彼は自分の外にこれを放逐するのである。」(182

さて、ネグリチュードとはいったい何であるか? まず言えることは、「白人はネグリチュードについて適切に語ることはできない。」なぜなら、白人はその内的経験を持っていないし、ヨーロッパの言語はそれを叙述しうるような言葉を欠いているから(何という、身もふたもない……)。ただ、ネグリチュードが純粋詩であるということは言えるだろう。

ハイデガーの用語を借りていえば、「ネグリチュードとは、ニグロの世界存在」に他ならない。つまり、いかなる反省にも先行して、ニグロ(性)は「世界のただなかに実存する(exister au millieu de monde)」ということだ。

西欧は技術を生み出したがゆえに、自然を純粋な量として捉え、外在性としてあらわにする。いっぽうで、ニグロは工作者となることを拒否したがゆえに、自然を蘇生させる。

「道具について白人は全てを知っている。しかし道具は事物の表面を引掻くだけで、持続、生命を知らない。これに反してネグリチュードとは感応による会得のことである。黒人の秘密とは、彼の実存の源泉と〈存在〉の根とが同一であるということだ。」(185

また、彼らの汎神論にも着目しなければならない。白人は神の手によってこねられた被造物である。それに対して、「われらの黒人詩人にとっては、存在は起ち上がる陰茎のように、〈無〉から出現する。」(187

ネグリチュードはその根本において両性具有であり、生命に満ち溢れている。加えて、ネグリチュードの詩は一貫して反キリスト教的であるにもかかわらず、その〈受難〉をその特徴としている。「自己の苦悩を意識する黒人は、いっさいの人間の苦悩を引き受け、すべての人間にかわって、白人にさえもかわって苦しむ人間として、自分自身の眼に描かれるのである。」(189

これらをまとめると:「黒人は〈生命〉に対する性的な感応であるかぎりにおいて〈自然〉全体と融合し、反抗的苦悩の〈受難〉であるかぎりにおいて〈人間〉としての自己の復権を要求する」(189)ものである。

こうした苦悩の体験によって、黒人の意識は歴史的なものになる。奴隷制はすでに過去のものとなったが、その底知れぬ悪夢から、彼らは目覚めているかどうかわからないのだ。

「黒人は一つの集団の記憶を共有している。」(192)パスカルによれば、人間は形而上学と歴史との非合理な合成物である。われわれが泥からつくられたのだとすればその偉大さは説明がつかず、かといって神の被造物だとすればあまりにも悲惨だ。これを飲み込むためには原罪という「失墜」に頼らねばならなかった。セゼールが自らの人種を「顚落した種族」と呼ぶのもこのためである。この点で、黒人の意識とキリスト教意識は比較しうる。奴隷制の鉄の掟は「過失」を、そして奴隷制の廃止は「贖罪」を思い起こさせる。しかし、この「過失」は彼自身のものではない。白人の過失である。黒人は無辜の生け贄なのだ。従って、黒人詩のほとんどが反キリスト教的であるのは、それが瞞着に他ならないことを見抜いているからである。

「苦しみの直感が集団的過去を授け、未来に一つの目的を与えるに応じて、ついには黒人は自己を歴史化する。」(193

ここに至って、人種は歴史性へと変化する。「ネグリチュードは、その〈過去〉及び〈未来〉ともろともに、〈世界史〉の中へ挿入される。」「いまや彼は自己の使命の上に、生きる権利を打ち樹てる。この使命はプロレタリアの使命とまったく同様、彼の歴史的状況に由来する。黒人は他の人間以上に資本主義の搾取に苦しんできたから、他の人間以上に反抗と自由への愛を獲得している。また誰よりも抑圧されたものなのだから、彼が自分自身の救済に努めるとき、必然的に彼はあらゆる人間の解放を追求していることになる。」(195

ネグリチュードは、在ること(être)と在るべきこと(devoir-être)との絶えず変化する輝きだ。それは人を作り、人はそれを作る。何より、それは「人種差別に反対する人種差別を創り出している」。ここで、ネグリチュードは(再び)プロレタリアートと接続される。弁証法的に考えよう。白人の覇権の正当性というテーゼに対して、ネグリチュードをアンチ・テーゼとして定立すること。ここから「人種のない社会における人間的なものの実現」という綜合が生じるだろう。「このように、〈ネグリチュード〉は己れを破壊する性質のものであり、経過であって到達点ではなく、手段であって最終目的ではない。」(197

黒人は、やっと見つけた自尊心たるネグリチュードの放棄を運命付けられている。それは純粋な自己超出であり、愛である。「〈ネグリチュード〉は自己を抛棄するその瞬間に自己を見出す。負ける〔滅びる〕ことを受け容れるその瞬間に、勝を収めるのである。」「苦悩にあふれ、だが希望にみちた神話、〈悪〉から生まれて〈善〉を孕んでいる〈ネグリチュード〉は、死ぬために生まれて生涯のもっとも素晴らしい瞬間においてすら死を感じ続けている一人の女のように生き生きとしている。それは不安定な休息であり、爆発的な固定性であり、自己を放棄する自尊心であり、一時的であることを自覚している絶対である。」(199

「〈ネグリチュード〉は、黒人がもう完全には帰れない郷愁の〈過去〉と、〈ネグリチュード〉が新しい価値にその場を譲るであろう〈未来〉とのあいだにかけられたあの緊張である。」「〈ネグリチュード〉は客観的なものの中に刻まれる主観性である。だから一篇の詩、すなわち一個の客体となった主観性(subjectivité-objet)の中に具象化されねばならない。」(200



サルトル, ジャン=ポール「黒いオルフェ」『シチュアシオンⅢ』佐藤朔ほか訳. 人文書院, 1964. pp.159-207.

2017年7月27日木曜日

レヴィ=ストロース『野生の思考』メモ



.「歴史と弁証法」
 サルトル批判。分析的理性と弁証法的理性を区別する根拠の疑わしさについて。サルトルは前者を未開人に与するものとし、後者を西欧的知性の特徴と捉えている。L. S. にとって、「弁証法的理性はつねに構成する理性である。それは、深淵に分析的理性が架け渡し、たえず延長し改善してゆく橋なのである」(?)。いっぽうで、「サルトルは怠惰な理性を分析的理性と呼ぶ」。
 サルトルの思想の根幹をなすのは、自己と他者の眼差しの相克である(対自と対他)。けれども、L. S. にとって「自我は他者に対立するものではないし、人間も世界に対立しない。人間を通じて学ばれた心理は「世界に属する」ものであり、またそれゆえに重要なのである」。それはちょうど数学的真理のようなものだ。サルトルは未開を「歴史なき」民族とみなしており、こうした「発育不全で畸形」の人類を人間の側に組み込もうと執心している。これに対する L. S. の反論。「人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の差異と共通性とで構成される体系の中に存する」。
 また、「サルトルが安易な対比をたくさん重ねて未開人と文明人との間の区別を強調するのは、彼が自己と他者の間に設定する基本的対立を、ほとんどそのまま反映している」。
 近代において、歴史には特権的な地位が与えられ、それはほとんど神話のように扱われてきた。歴史学は民俗学と相補関係にあるが、前者が多様な人間社会を「時間」の中に展開するのに対し、後者は「空間」に展開する。我われは自らの生成を連続的変化として捉えているので、(時間的)連続性を持つ前者は称揚され、不連続的体系を表す後者は顧みられない傾向にある。けれども、歴史を日付という目盛りで解釈しようと試みるとき、果たしてそれは連続性を持っていると言い切ることができるのだろうか? 歴史はリニアーな日付(年、月、日)ではなく、日付のクラス(一時間、一日、一年、世紀、千年)で計測されている。これらの各クラスはすべて不連続的な集合である。
 このように、歴史的認識は必ずしも連続性を有してはいないし、また、それは絶対的特権を付されるものでもない。結論を急げば、「野生の思考の特性はその非時間制にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする」のだ。
 なぜ、我われの目にこれらの異文化社会は不透明に映るのだろうか? それは、「自分たちの諸慣習は、われわれの心の中では互いに分離された状態で存在するのに対し、異文化社会の諸慣習は互いに結合された形であらわれるので、われわれにはわかりにくい」からだ。
野生の思考はわれわれの思考と同じ意味において、また同じ方法によって論理的なのである」。最後に、他の箇所でも展開されたレヴィ=ブリュール批判。「野生の思考は〔レヴィ=ブリュールの言うように〕情意性によって働くものではなく、悟性によって働くものであり、混同と融即によってではなく、弁別と対立を使って機能するのである」。




少し気になったので。最後の引用部は、原文を確認すると:

"[...]cette pensée procède par les voies de l’entendement, non de l’affectivité; à l’aide de distinctions et d’ oppositions, non par confusion et participation."
entendement 「理解」、distinctions 「区別」とは違うのだろうか? entendement(=understanding)を「悟性」と訳すのは、いつから始まった慣習なのだろう?