2017年7月27日木曜日

レヴィ=ストロース『野生の思考』メモ



.「歴史と弁証法」
 サルトル批判。分析的理性と弁証法的理性を区別する根拠の疑わしさについて。サルトルは前者を未開人に与するものとし、後者を西欧的知性の特徴と捉えている。L. S. にとって、「弁証法的理性はつねに構成する理性である。それは、深淵に分析的理性が架け渡し、たえず延長し改善してゆく橋なのである」(?)。いっぽうで、「サルトルは怠惰な理性を分析的理性と呼ぶ」。
 サルトルの思想の根幹をなすのは、自己と他者の眼差しの相克である(対自と対他)。けれども、L. S. にとって「自我は他者に対立するものではないし、人間も世界に対立しない。人間を通じて学ばれた心理は「世界に属する」ものであり、またそれゆえに重要なのである」。それはちょうど数学的真理のようなものだ。サルトルは未開を「歴史なき」民族とみなしており、こうした「発育不全で畸形」の人類を人間の側に組み込もうと執心している。これに対する L. S. の反論。「人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の差異と共通性とで構成される体系の中に存する」。
 また、「サルトルが安易な対比をたくさん重ねて未開人と文明人との間の区別を強調するのは、彼が自己と他者の間に設定する基本的対立を、ほとんどそのまま反映している」。
 近代において、歴史には特権的な地位が与えられ、それはほとんど神話のように扱われてきた。歴史学は民俗学と相補関係にあるが、前者が多様な人間社会を「時間」の中に展開するのに対し、後者は「空間」に展開する。我われは自らの生成を連続的変化として捉えているので、(時間的)連続性を持つ前者は称揚され、不連続的体系を表す後者は顧みられない傾向にある。けれども、歴史を日付という目盛りで解釈しようと試みるとき、果たしてそれは連続性を持っていると言い切ることができるのだろうか? 歴史はリニアーな日付(年、月、日)ではなく、日付のクラス(一時間、一日、一年、世紀、千年)で計測されている。これらの各クラスはすべて不連続的な集合である。
 このように、歴史的認識は必ずしも連続性を有してはいないし、また、それは絶対的特権を付されるものでもない。結論を急げば、「野生の思考の特性はその非時間制にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする」のだ。
 なぜ、我われの目にこれらの異文化社会は不透明に映るのだろうか? それは、「自分たちの諸慣習は、われわれの心の中では互いに分離された状態で存在するのに対し、異文化社会の諸慣習は互いに結合された形であらわれるので、われわれにはわかりにくい」からだ。
野生の思考はわれわれの思考と同じ意味において、また同じ方法によって論理的なのである」。最後に、他の箇所でも展開されたレヴィ=ブリュール批判。「野生の思考は〔レヴィ=ブリュールの言うように〕情意性によって働くものではなく、悟性によって働くものであり、混同と融即によってではなく、弁別と対立を使って機能するのである」。




少し気になったので。最後の引用部は、原文を確認すると:

"[...]cette pensée procède par les voies de l’entendement, non de l’affectivité; à l’aide de distinctions et d’ oppositions, non par confusion et participation."
entendement 「理解」、distinctions 「区別」とは違うのだろうか? entendement(=understanding)を「悟性」と訳すのは、いつから始まった慣習なのだろう?







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