2016年12月22日木曜日

贈与とクリスマス

 
年の瀬も近づき、街もぎらぎらと騒がしい色になってきた。先月、こんな本が出た。クロード・レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』中沢新一訳(角川書店、2016)。

 旧版にクロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳(せりか書房、1995)がある。「火あぶりにされたサンタクロース」は同書に収められている論文のタイトルだ。このたび刊行された新装版では、この論文題目が書名としてそのまま使われている。「火あぶりにされたサンタクロース」自体は日本語で70ページ足らずの短いもので、それに加えて中沢の解題「幸福の贈与」が併録されている。合わせて100ページと少し。新装版と旧版の異同は確認していないが、今回覗いたのは『サンタクロースの秘密』の方だ。

「火あぶりにされたサンタクロース」は1952年に『レ・タン・モデルヌ』誌に掲載された。編集長を務めていたのはサルトルだ。この論文執筆の依頼を通じて、後に実存主義にとって最も厄介な論客となるレヴィ=ストロースと、「カミュ=サルトル論争」の渦中にあり依然として耳目を集めていたサルトルが出会ったというのだから、いささかドラマティックでもある。

 本論文は1951年12月24日に起きた、とある事件から始まる。フランス中部に位置する街ディジョンで、衆人環視の中でサンタクロースが火あぶりにされたというのである。しかも、この火刑は大聖堂前の広場で、聖職者の同意のもとに執行されたのである。レヴィ=ストロースはこの事件を俎上に上げて、サンタクロース論を展開してゆく。
 なぜ、サンタクロースは火あぶりにされたのか? 端的に言えば、サンタクロースは異教のシンボルとみなされたのである。元来キリストの降誕を祝う祭であったクリスマスが、サンタクロースという存在によってその本来的意義を失いつつある。このことに教会は脅威を抱き、かような蛮行に及んだのである。

 ライシテを標榜するフランスでこのような事件が起きたことは、現代的な観点から見てもおもしろい。この処刑の背景には、戦後フランスにおいてアメリカ合衆国の存在が肥大化してきたということがある。マーシャル・プランの恩恵を受けて復興を進めていたフランスへは、米国文化が大量に流入したのだった。サンタクロースのモデルはいうまでもなく、聖ニコラウスである。オランダ語で聖ニコラウスを意味する〈シンタクラース〉が訛って英語ではサンタクロースとなり、全世界に広がった。けれども、我われが今日よく知るクリスマスおよびサンタクロースを米国由来のものだと決めつけてしまうのは早計だろう。これらは長い歴史のなかで、形態を大きく変えながら現在まで生き残っているのであって、その最新モデルが米国式というだけの話なのである。

 レヴィ=ストロースは、サンタクロースとは「社会を、いっぽうに子供、もういっぽうに青年と大人を配した二集団に分割する、差異の原理を表現」するものだと説明する。サンタクロースはそれを信じている子供のもとにしかやってこない。サンタクロースへの信仰を捨てたとき、子供は大人の集団に組み込まれる。これは一種の通過儀礼である。このような例は他にもある。アメリカ合衆国南西部に住むプエブロ・インディアンの社会では、先祖の霊や神を表象するカチーナたちが村々を周期的に訪れ、子供たちに罰や褒美を与える。けれども、カチーナという存在の本質は子供たちをしつけることではない。カチーナ神とはもともと溺死した子どもたちの霊なのである。つまりカチーナそのものが、子供であり、死者を体現しているのだ。この例をレヴィ=ストロースは重要視する。

 話をサンタクロースに戻すと、その起源は中世の〈喜びの司祭〉、〈サチュルヌス司祭〉、〈混乱司祭〉などにもとめられる。これらはいずれも、クリスマスの期間だけ王となることを許された存在である。教会はこうした異教の祝祭を救世主の降誕祭に作り替えてしまったのであった(イエスはもともと夏に生まれたという伝承がある)。ここで、サンタクロースを火あぶりにした協会側の言い分は全く筋が通らなくなってしまう。クリスマスとは本来的に異教的なものだったのである。古代ギリシャ・ローマ時代から中世までの〈12月の祭〉とは一言でいえば、カーニバル的な様相を呈していた。そこでは階層を隔てる梯子は取り払われ、男女はお互いの衣類を交換し、若者は力の限り騒いだ。こうしたカオスを治める役割を担っていた者こそが〈喜びの司祭〉であった。これがサンタクロースの原型である。
 
 けれども、現代のクリスマスに往時ほどの緊張はなく、若者は姿を潜めている。主役となるのは、子供たちだ。その集団は聖ニコラウスの代理人を務め、村中を歩き回り寄進を募る役割を担わされた。この伝統は現代のハロウィーンに受け継がれている。ここで、カチーナの事例を思い浮かべてみよう。カチーナとは子供たちの霊、すなわち死者であった。死者が寄進を求めるということは何を意味するのだろうか? 秋から冬にかけての闇が光を打ち負かす季節に、人びとは死者の来訪を怖れた。そこで、彼らに贈り物を捧げてもてなすことで、おとなしく生者の世界から立ち去ってもらおうと考えたのである。生者の世界において、死者(=他者)を体現できる存在とは、まだ社会集団に組み込まれていない存在、すなわち子供たちであった。

 このように歴史を概観し、解釈を与えたうえで、レヴィ=ストロースは始まりの設問に立ち返る。「なぜサンタクロース像は、かくも発展しえたのか」。現代において、死との関係は古代と比べてライトなものとなった。もはや我われは死者や幽霊を怖れてはいない。それにもかかわらず、その関係性を表象するサンタクロースは消えることなく、むしろ発展してきた。我われが、子供たちの持つサンタクロースの幻想を必死に守ろうとするのは何故だろうか。それはおそらく、「心の奥底では、ささやかなものとはいえ、見返りを求めない気前の良さとか、下心なしの親切などというものが存在することを信じていたい、という欲望」(53)を我われが持ち続けているからだ。「たぶん、私たちはその幻想が他の人々の心の中で守られ、それが若い魂に火を灯し、その炎によって、私たち自身の身体までが温められる、そんな機会を失いたくないのだ」(53、54)。レヴィ=ストロースは言う。「クリスマスの贈与。それは生きていることの穏やかさに捧げられた『サクリファイズ(供犠)』なのだ。生きていることは、まずなによりも、死んではいないことによって、ひとまずの穏やかさを実現しているからだ」(54)

 

 論文自体が平易な筆致で書かれていることもあって読みやすいのだが、供録の「幸福の贈与」を読むとさらに理解が深まるのではないかと思う。とりわけ冒頭部での「サルトルの思想には、不幸についての分析は、いっぱいある。しかし、実存主義は幸福については語らない。ところが、レヴィ=ストロースはこの論文で、幸福の秘密に触れようとしたのである」(71)という紹介などは白眉ではないだろうか。
 前半部ではマルセル・モース『贈与論』を軸に作品の解題がなされている。マーシャル・プランが実行に移されていたフランスはまさに米国から〈贈与〉を受けていたのであり、ここからバタイユ『呪われた部分』やレヴィ=ストロース『親族の基本構造』などが生まれてくる。
 後半部で中沢は「火あぶり……」の内容を確認しつつ、そこに〈贈与の霊〉という概念を持ち込んでいる。クリスマスをはさむ〈冬の祭〉の間には、死者たちが生者の世界へと流れ込み、世界のバランスが崩れてしまう。その均衡を取り戻すべく、我われが死者の領域に送るものこそが〈贈与の霊〉であり、祭壇に供えられる品物や贈り物は、それを物質化したものである。その媒介を務めるのが、若者であり子供たちなのだと中沢は主張する。しかし、こうした循環のシステムはブルジョワ社会の成立とともに変容する。物質主義的な近代において、死者たちの世界は無化されてしまう。また、啓蒙された社会では古くさい因習は廃止され、子供たちが夜道を歩くことも危険だと非難を浴びるようになる。けれども、理論のうえで死者たちの世界が消滅しても、大人は子供たちがその〈外〉の世界と繋がっていることを無意識で感じている。贈与は行われなければならない。ここで贈与を受け取るのはもちろん死者=子供たちである。その結果として、誕生したのがサンタクロースだ。この老人は、生者と死者の世界を繋ぐ媒介者の役割を肩代わりしたのだった。
 贈与には宇宙的な力の流動が寄り添っている。北アメリカのインディアンや、メラニシアの原住民たちの風俗には〈贈与の祭〉がある。そこで人びとは、客人を盛大にもてなし、物品を気前よく浪費する。モースはこれに着目して『贈与論』を執筆した。「商業は人と人の間に、分離をつくりだす。これにたいして、贈与は人と人を結合することができる。商業(これは等価交換を、第一原理としている)がロゴスならば、贈与とはエロスなのだ」(105)。個と個は〈贈与の霊〉を通じて、結びつくのだ。クリスマスもこうした贈与の祝祭である。ここで参照されるのが(ここまで読んできた誰もが思い浮かべていたであろう)ディケンズの『クリスマス・キャロル』である。スクルージは贈与のシステムを誰より嫌っている。けれども、彼はクリスマスに死者の霊との交信を通じて、人びとが無欲に贈与し合う様を目の当たりにする。果たして、彼のなかでは〈贈与の霊〉が動きだすのだった。




2016年12月10日土曜日

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて——チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて——チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』飯島みどり訳(岩波書店、2016

原書は Rumbo al Sur, deseando el Norte: un romance bilingüe, Barcelona, Editorial Planeta, 1998

 アルゼンチンに生まれ、後にアメリカ合衆国、チリと移り住み、1973年以降は亡命を余儀なくされた作家アリエル・ドルフマン(1942-)の自叙伝。本書は第一部「北と南」(1-8章)、第二部「南と北」(9-終章)で構成されている。著者の幼少期におけることばとの邂逅を綴った1、2章を除いて、奇数章では1973年のチリ軍事クー・デタ以降の出来事が述べられており、偶数章は1945年から1973年までを時系列順に追うものである。巻末には日本語版への付録として、2006年にピノチェトが死去した際に執筆された記事が2点掲載されている。大筋は同じ内容の記事だが、一方は英語、他方はスペイン語で発表されたものであり、異同を瞥見することができる。本書ははじめ英語で書かれ、のちにドルフマン自身がそれをスペイン語へと翻訳した。翻訳と言っても、もちろん逐語訳ではなく大部に削除・加筆・変更が認められる。

 アリエル・ドルフマンは1942年、ブエノス・アイレスに生まれた。彼の母ファニイは帝政ロシアの現モルドヴァに生まれたユダヤ人で、迫害を逃れてアルゼンチンへとやって来た移民であった。一方、父アドルフォは現ウクライナの裕福なユダヤ一族の出であったが、事業が失敗したことが原因でアルゼンチンへ、のちにロシアへと居を移す。ところがそこでロシア革命に遭い、再びアルゼンチンへと戻る、という波瀾万丈な人生を送った人物でもあった。ちなみに、『アンナ・カレーニナ』を初めてスペイン語へと翻訳したのがこの父親の母、つまりアリエルからみた父方の祖母であったのだという。(1、2章)
 1945年、共産主義者であった父が軍事政権の圧迫を受け、一家はニュー・ヨークへと移り住む。その直後、アリエルは肺炎を患い緊急入院する。その時からアリエルは北米人となることを決意し、以降10年間、スペイン語を話すことをやめる。(4章)
 冷戦が始まると、合衆国ではアカ狩りが熱を増し、1954年、一家はチリへの移住を余儀なくされる。アリエルは英国系の学校に編入し、ここで再びスペイン語(カステジャノ)を覚え直すこととなるが、チリに身を置いても、執筆活動は英語でのみ行っていた。ちなみに、合衆国時代から、著者は(共産主義者であった父がレーニンにちなんでつけた名である)ウラディミロという本名を厭い、勝手にこしらえたエドワードという名前を使うようになっていた。のちに、シェイクスピアの『テンペスト』(あるいはホセ・エンリケ・ロドーの『アリエル』)にシンパシーを感じ、もうひとつの本名アリエルを名乗ることになる。(6、8章)
 チリで貧困を目の当たりにしたアリエルは大学入学後、学生運動に盛んに参加し、サルバドール・アジェンデの選挙活動を手伝うようになる。1964年の大統領選で、アジェンデは敗北を喫するが、アリエルはそこで生涯の伴侶アンヘリカとも出会う。(10章)
 ラテンアメリカにおけるCIAの横暴、ベトナム戦争の開始などをうけて、次第にアリエルの心は北米を離れてゆく。1960年代のラテンアメリカ文学の〈ブーム〉を機に、アリエルは「翻訳者不要の英語でラテンアメリカの経験を書き記す」(316)可能性に思い当たる。そんな折、アリエルにカリフォルニア大学バークレー校への留学の話が浮上する。激動の1968年のことであった。(12章)
 アリエルは妻アンヘリカと息子ロドリゴを連れて、10数年ぶりにアメリカ合衆国の土を踏む。かつて親しんだホットドッグに舌鼓を打ちながらも、アリエルはヒッピーやニューレフトとも接触し、そこで米国における左翼運動の限界を見る。留学の期間を終え、1970年、チリに戻る。(14章)
 1970年、果たしてサルバドール・アジェンデが大統領に就任する。翌年、アリエルはアルマン・マトラールとともに『ドナルド・ダックを読む』を発表。「地球全体を覆う北米文化産業とどう対峙すべきか」を問うたこの主著、別名「脱植民地化の手引書」は、1973年以降、バルパライソ湾に投げ込まれたり、焚書の刑に処せられたりと、憂き目に遭うこととなる。アリエルはアジェンデ政権文化補佐官の職を得る。(16章)

 奇数章。1973年9月11日の事件当日、アリエルは本来モネダ宮殿で夜勤をしているはずだった。同日の午前中、あるプロジェクトの打ち合わせを抱えていたアリエルは同僚クラウディオ・ヒメノに当直の交代を頼んでいたのであった。クラウディオは亡くなり、アリエルは生き延びる。さらに彼の上司フェルナンド・フロレスは「歴史を語り伝えるために、生き残らなければならない者というのもいる」(6061)と考え、緊急時連絡電話一覧表からアリエル・ドルフマンの名を消す。アリエルはアルゼンチン大使館に逃げ込む。クー・デタを逃れて避難して来た大量の人びとに埋もれ、足止めを食らっていたアリエルであったが、ひょんなことから大使夫人と話すようになり、出国に成功する。夫人は米国人で、皮肉なことに、ここでも彼は英語に救われたのである。以後、アリエルは生地ブエノス・アイレスを経て、パリ、オランダ、メキシコと亡命を続ける。



 事実は小説より奇なりとはこのことか、と言いたくなるほどに波乱万丈な人生を綴ったアリエル・ドルフマンの自叙伝である。読んでいても、話ができすぎではないかと思うようなエピソードが盛りだくさんなのだが、ドルフマン自身もそれをひしひしと感じており、いたるところに運命の符牒を見出そうとする姿はさながらドン・キホーテのようでもある。
 亡命する作家の多いラテンアメリカにおいても、彼ほどの故郷喪失[デスティエロ]を経験した人物はなかなかいないだろう。そもそも彼の出自からして大変複雑なものであって、祖父母の代から俯瞰するとドルフマン家は、ロシア語、イディッシュ語、フランス語、英語、スペイン語、ドイツ語などが飛び交うカオスな言語環境にあった。無論、アリエル・ドルフマン自身もそうした諸言語の葛藤を逃れることはできなかった。とりわけ、彼の幼少期の出来事が語られる偶数章は、言語間(主にスペイン語と英語)を揺れ動く著者自身の煩悶が表れているようで、読み進めるのも一苦労である。翻訳では、lengua が「舌(ことば)」、idioma が「言語」、lenguaje が「ことば(レングアへ)」、palabra が「言葉、単語」と訳し分けられている。ドルフマン特有の繊細な言語感覚による指摘がなかなか面白い。例えば:

「いつの日か僕は気づくことになる、esperanza[ルビ:エスペランサ]希望の語はそもそも待つ[エスペラル]ことを旨とし、また辛抱強さを源に込めてもいる」(185

他にも、スペイン語の無人称構文を巡って、「スペイン語[カステジャノ]はスペイン語信者たちが己れの過ちを他人のせいにするお先棒を担いできたのであり、受け身構文がやたらと人気を博し、また hay que, habría que, sería necesario que ……主語に関わりなく~しなければならない、~しなければならないはず、~することが必要、といった言い回しを濫発する」(187)などと私見を述べたり、compañero という語には pan を分かち合うという意味が内包されており、これに相当する語は英語には存在しない、と言い切ったりするところなどは、思わず膝を打ちたくなる。


 これは余談だが、先日、神保町をぶらぶらしていたとき、ある古書店で件の『ドナルド・ダックを読む』を見つけた。ただし、アメコミの棚で。ここにも、何らかの符牒が見出されるべきなのだろうか……