アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて——チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』飯島みどり訳(岩波書店、2016)
原書は Rumbo al Sur, deseando el Norte: un romance bilingüe, Barcelona, Editorial Planeta, 1998
アルゼンチンに生まれ、後にアメリカ合衆国、チリと移り住み、1973年以降は亡命を余儀なくされた作家アリエル・ドルフマン(1942-)の自叙伝。本書は第一部「北と南」(1-8章)、第二部「南と北」(9-終章)で構成されている。著者の幼少期におけることばとの邂逅を綴った1、2章を除いて、奇数章では1973年のチリ軍事クー・デタ以降の出来事が述べられており、偶数章は1945年から1973年までを時系列順に追うものである。巻末には日本語版への付録として、2006年にピノチェトが死去した際に執筆された記事が2点掲載されている。大筋は同じ内容の記事だが、一方は英語、他方はスペイン語で発表されたものであり、異同を瞥見することができる。本書ははじめ英語で書かれ、のちにドルフマン自身がそれをスペイン語へと翻訳した。翻訳と言っても、もちろん逐語訳ではなく大部に削除・加筆・変更が認められる。
アリエル・ドルフマンは1942年、ブエノス・アイレスに生まれた。彼の母ファニイは帝政ロシアの現モルドヴァに生まれたユダヤ人で、迫害を逃れてアルゼンチンへとやって来た移民であった。一方、父アドルフォは現ウクライナの裕福なユダヤ一族の出であったが、事業が失敗したことが原因でアルゼンチンへ、のちにロシアへと居を移す。ところがそこでロシア革命に遭い、再びアルゼンチンへと戻る、という波瀾万丈な人生を送った人物でもあった。ちなみに、『アンナ・カレーニナ』を初めてスペイン語へと翻訳したのがこの父親の母、つまりアリエルからみた父方の祖母であったのだという。(1、2章)
1945年、共産主義者であった父が軍事政権の圧迫を受け、一家はニュー・ヨークへと移り住む。その直後、アリエルは肺炎を患い緊急入院する。その時からアリエルは北米人となることを決意し、以降10年間、スペイン語を話すことをやめる。(4章)
冷戦が始まると、合衆国ではアカ狩りが熱を増し、1954年、一家はチリへの移住を余儀なくされる。アリエルは英国系の学校に編入し、ここで再びスペイン語(カステジャノ)を覚え直すこととなるが、チリに身を置いても、執筆活動は英語でのみ行っていた。ちなみに、合衆国時代から、著者は(共産主義者であった父がレーニンにちなんでつけた名である)ウラディミロという本名を厭い、勝手にこしらえたエドワードという名前を使うようになっていた。のちに、シェイクスピアの『テンペスト』(あるいはホセ・エンリケ・ロドーの『アリエル』)にシンパシーを感じ、もうひとつの本名アリエルを名乗ることになる。(6、8章)
チリで貧困を目の当たりにしたアリエルは大学入学後、学生運動に盛んに参加し、サルバドール・アジェンデの選挙活動を手伝うようになる。1964年の大統領選で、アジェンデは敗北を喫するが、アリエルはそこで生涯の伴侶アンヘリカとも出会う。(10章)
ラテンアメリカにおけるCIAの横暴、ベトナム戦争の開始などをうけて、次第にアリエルの心は北米を離れてゆく。1960年代のラテンアメリカ文学の〈ブーム〉を機に、アリエルは「翻訳者不要の英語でラテンアメリカの経験を書き記す」(316)可能性に思い当たる。そんな折、アリエルにカリフォルニア大学バークレー校への留学の話が浮上する。激動の1968年のことであった。(12章)
アリエルは妻アンヘリカと息子ロドリゴを連れて、10数年ぶりにアメリカ合衆国の土を踏む。かつて親しんだホットドッグに舌鼓を打ちながらも、アリエルはヒッピーやニューレフトとも接触し、そこで米国における左翼運動の限界を見る。留学の期間を終え、1970年、チリに戻る。(14章)
1970年、果たしてサルバドール・アジェンデが大統領に就任する。翌年、アリエルはアルマン・マトラールとともに『ドナルド・ダックを読む』を発表。「地球全体を覆う北米文化産業とどう対峙すべきか」を問うたこの主著、別名「脱植民地化の手引書」は、1973年以降、バルパライソ湾に投げ込まれたり、焚書の刑に処せられたりと、憂き目に遭うこととなる。アリエルはアジェンデ政権文化補佐官の職を得る。(16章)
奇数章。1973年9月11日の事件当日、アリエルは本来モネダ宮殿で夜勤をしているはずだった。同日の午前中、あるプロジェクトの打ち合わせを抱えていたアリエルは同僚クラウディオ・ヒメノに当直の交代を頼んでいたのであった。クラウディオは亡くなり、アリエルは生き延びる。さらに彼の上司フェルナンド・フロレスは「歴史を語り伝えるために、生き残らなければならない者というのもいる」(60、61)と考え、緊急時連絡電話一覧表からアリエル・ドルフマンの名を消す。アリエルはアルゼンチン大使館に逃げ込む。クー・デタを逃れて避難して来た大量の人びとに埋もれ、足止めを食らっていたアリエルであったが、ひょんなことから大使夫人と話すようになり、出国に成功する。夫人は米国人で、皮肉なことに、ここでも彼は英語に救われたのである。以後、アリエルは生地ブエノス・アイレスを経て、パリ、オランダ、メキシコと亡命を続ける。
事実は小説より奇なりとはこのことか、と言いたくなるほどに波乱万丈な人生を綴ったアリエル・ドルフマンの自叙伝である。読んでいても、話ができすぎではないかと思うようなエピソードが盛りだくさんなのだが、ドルフマン自身もそれをひしひしと感じており、いたるところに運命の符牒を見出そうとする姿はさながらドン・キホーテのようでもある。
亡命する作家の多いラテンアメリカにおいても、彼ほどの故郷喪失[デスティエロ]を経験した人物はなかなかいないだろう。そもそも彼の出自からして大変複雑なものであって、祖父母の代から俯瞰するとドルフマン家は、ロシア語、イディッシュ語、フランス語、英語、スペイン語、ドイツ語などが飛び交うカオスな言語環境にあった。無論、アリエル・ドルフマン自身もそうした諸言語の葛藤を逃れることはできなかった。とりわけ、彼の幼少期の出来事が語られる偶数章は、言語間(主にスペイン語と英語)を揺れ動く著者自身の煩悶が表れているようで、読み進めるのも一苦労である。翻訳では、lengua が「舌(ことば)」、idioma が「言語」、lenguaje が「ことば(レングアへ)」、palabra が「言葉、単語」と訳し分けられている。ドルフマン特有の繊細な言語感覚による指摘がなかなか面白い。例えば:
「いつの日か僕は気づくことになる、esperanza[ルビ:エスペランサ]希望の語はそもそも待つ[エスペラル]ことを旨とし、また辛抱強さを源に込めてもいる」(185)
他にも、スペイン語の無人称構文を巡って、「スペイン語[カステジャノ]はスペイン語信者たちが己れの過ちを他人のせいにするお先棒を担いできたのであり、受け身構文がやたらと人気を博し、また hay que, habría que, sería necesario que ……主語に関わりなく~しなければならない、~しなければならないはず、~することが必要、といった言い回しを濫発する」(187)などと私見を述べたり、compañero という語には pan を分かち合うという意味が内包されており、これに相当する語は英語には存在しない、と言い切ったりするところなどは、思わず膝を打ちたくなる。
これは余談だが、先日、神保町をぶらぶらしていたとき、ある古書店で件の『ドナルド・ダックを読む』を見つけた。ただし、アメコミの棚で。ここにも、何らかの符牒が見出されるべきなのだろうか……?
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