2015年12月20日日曜日

ガボが死んだ日


 「ガボ」ことガブリエル・ガルシア=マルケスは2014年の春、メキシコで客死した。長年アルツハイマー病を煩っており、もう新作は書けないだろうと言われていた。肺炎(?)の手術から復帰したというニュースが伝えられ、誰もが胸を撫で下ろした矢先の死だった。

 ガボが死んだとき、ぼくもメキシコにいた。確か、あれは聖週間の最中だったと思う。メキシコシティでは不穏な天気が続いていて、スコール、雷、雹、暴風、それにともなう停電や断水があり、ぼくは家に閉じこもって夕方まで寝ていた。目を覚ますと、ガボの死がいたるところで報じられていた。同居人のドイツ人が買い物から帰って来たので、彼と少しだけ、ガボの話をした。そうこうしているうちに気づいたのは、ぼくが抱いている感情が「悲しみ」とはほど遠いものであるということだった。ガボの死に際してぼくが真っ先に感じたのは「違和感」だった。ぼくがラテンアメリカ文学に触れ始めたのは、たぶん2012年の後半だったと思う。マリオ・バルガス=リョサが来日したときや、カルロス・フエンテスが死んだとき、ぼくは彼らの名前すら知らなかった。大学の講義でガボを紹介され、『百年の孤独』を読み始めたのがそのころだった。小説を通して知ったガボは、ぼくにとって紙の上の存在でしかなく、どちらかといえばフィクションに近い存在だったのだと思う。それでもガボは死んだ。その訃報がメディアに取り上げられて、ぼくはある種の眩惑を覚えた。言うなれば、現実とフィクションの境界がにわかに歪んだ感覚に陥ったのだった。


 ガボの死から一週間後、ベジャス・アルテス宮殿で葬儀が行われた。メキシコ人の友人に連れられて行ってみると、すでにそこには長蛇の列ができていた。隣に並んでいたいおじさんはずっとガボの住んでいたペドレガル地区の歴史を話して聞かせてくれた。遠くでは作家のハビエル・ベラスコがテレビの取材に受け答えをしていた。ぽつぽつと雨が降り始めると、いつものようにどこからともなく売り子がやってきて、商魂たくましく傘や合羽を行列に売りつけていた。

 4時間ほど並んだころ、列の動きが止まった。周りの話を盗み聞きすると、どうやらペーニャ・ニエト大統領がやってきて、ガボの遺灰の前で演説を行っているらしい。友人は「Así es México.(これがメキシコだよ)」と言って笑っていた。しばらく経って、列が再び動き始めたころ、あたりはもう暗くなっていた。ぼくらはもう宮殿の入り口近くまで来ていた。ふいに、建物のほうから歓声があがった。視線を上げると、ライトに照らされた黄色い蛾が空一面、ひらひらと舞っていた。それはかつてマコンドを覆い尽くした、あの蛾になぞらえて切られた大量の黄色い折り紙だった。しばし人々は疲れを忘れ、列を乱して、蛾を追いかけまわした。「Así es México, también.(これもまた、メキシコだね)」と言ってぼくらは笑った。

 すべての蛾はもはや重力に負け、その死骸は地面を黄色く彩った。興奮冷めやらぬうち、列の前方がざわめきだした。どうやら大統領が、ガボの遺灰を持ち去ったらしい。明日、母国コロンビアで行われる弔事に間に合うよう、今夜中に空輸しなければならないのだという。にわかに群衆は暴動と化した。列はぐいぐいと進み、人の波に流されて、ぼくらは守衛の立つ宮殿の入り口に漂着した。沸き立つ怒号は、次第に統一された歌に変わった。「Queremos ver a Gabo, Gabo, Gabo...(ガボに会わせろ、ガボ、ガボ……)」

 結局、列は半ば押し入るようなかたちで宮殿に足を踏み入れた。宮殿の階段下には引き延ばされたガボの肖像写真があり、その横にはフィデル・カストロからの献花が供えられていた。分かっていたことだが、すでにガボはそこにいなかった。参列者は立ち止まることを許されず、それらを視界の隅で確認するのが精一杯だった。宮殿を出ると、庭では子供たちが黄色い蛾の死骸を巻き散らかして遊んでいた。ぼくと友人は駅前の屋台でトルタを食べ、地下鉄で帰った。

2015年11月30日月曜日

死はしらふで、明るい目をしている


 少し前にピーター・グリーナウェイ監督『エイゼンシュテイン・イン・グアナフアト』を観てきた。ラテンビート映画祭のラインナップのひとつだったのだけれど、東京上映を逃してしまい、横浜まで足を延ばした。

 のちにDVD化もされるであろうこの映画を遠路はるばる観に行く理由がひとつあった。それは、小耳に挟んでいたかなり「エグい」映画だという前情報による。ぼくはこの映画を劇場で、しかもモザイク無しで観たかったのである。

 さて、評判に偽り無しといったところで、全編にわたってきわどいシーンがちりばめられている。この作品は『戦艦ポチョムキン』(1925)などで知られる映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが未完の大作『メキシコ万歳』を撮影するため訪れた、グアナフアトでの10日間を描いたもの。エイゼンシュテインに関しては門外漢なのだが、彼の功績にはモンタージュ理論の確立などがある。ここで、詳しく解説してくださっている方がいるようだ。

 グアナフアトはメキシコ中部に位置する、パステルカラーの街並みが美しいコロニアル建築の都市だ。2・3日あればまわれてしまうような小規模な街なのだが、観光名所は数多く、フアレス劇場、ピピラ像、ミイラ博物館などがある。

 そんなグアナフアトでエイゼンシュテインを出迎えるのが、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ。時代は1935年。1910年代を革命に費やし、1920年代の壁画運動を経て、メキシコではこの翌年の1936年に金字塔的な映画作品『ランチョ・グランデへ急げ』が制作される。映画産業が黄金期へと突入していく、まさにその前夜のメキシコをエイゼンシュテインは訪問したのである。

 先にも述べたように、冒頭から目を瞑りたくなるような描写が続くのだが、ひとつ印象的だったのが、エイゼンシュテインがひとり晴天のテラスで酒を煽り、ぐでんぐでんになるシーンだ。酩酊状態で地下坑道に迷い込んだ彼が、チャップリンに貰ったという一張羅の白スーツを吐瀉物まみれにするシーンなどはグロテスクというほかない。小綺麗に生きる術を身に付けた我々の目には、それが一種の映像的カタルシスにも映る。真っ青な屋外からの湿った地下への移動は、観客にもその息苦しさを錯覚させる。そのめまぐるしさに我々自身がほろ酔いになったような心持ちさえする。

 しかし、なんといっても見どころはエイゼンシュテインの「貫通」シーンだろう。内気なエイゼンシュテインがガイドのパロミーノによって陥落され、純白のシーツの上で、後ろから攻められるのだが、その画には一種の神々しさすら感じる。無事に(?)洗礼を済ませたエイゼンシュテインの肛門にパロミーノはミニチュアの旗を立て、「革命おめでとう」と囁く。ホモセクシュアルの性交を実に鮮やかに、そしてシンボリックに描いているという点だけでもこのシーンは卓抜していると思うのだが、ホルヘ・ネグレーテを彷彿とさせるようなダンディであるパロミーノと、自分の肉体を恥じているエイゼンシュテインの対比も良い。そういえば島田雅彦の『彼岸先生』でも、先生はメキシコで処女を喪失するのだが、これは単なる偶然ではなく、ひとえにメキシコのステレオタイプともいえるマッチョ信奉(マチスモ、男性優位主義と言い換えても良い)から生じるものだと思う。レイナルド・アレナスの『夜になる前に』を参照しても分かるように、男性対男性の征服―被征服という構図がラテンアメリカには、ある。

 ロシア人であるエイゼンシュテインが、目の当たりにしたメキシコは途方もなく異色のもので、それこそ彼にとっては「革命」であったのかもしれない。ガルシア=マルケスはある小説を読んだときの衝撃を「貞操帯を外された思いがした」と語っているが、時として、我々は未知のものに触れたときの衝撃を性的解放に換言するのである。エイゼンシュテインにとっては、そのふたつが渾然一体となって襲ってきたような感覚だったのだろうかと邪推してしまう。

 二人が墓地を散歩するシーンがある。死者の日の直前ということもあり、墓は色とりどりの華や笑う骸骨で飾られている。ミゲル・イダルゴやパンチョ・ビージャ、エミリアーノ・サパタなど、死者に思いを馳せ、パロミーノは呟く。「ここでは、死はしらふで、明るい目をしている」と。

 美と醜。そして、生と死。そういった、我々が目を覆いたくなるようなものをこの映画は実に雄弁に語っている。

2015年10月13日火曜日

『砂漠の街』


 先生がぼくの住む街を訪れる、という知らせを受け取ったのは丁度一週間前のことだった。ちょっとした用事があるので、少し会わないか、君の下宿先の目の前の路地で待ち合わせよう、と手紙には書いてあった。約束の時間に路地に出ると、先生がいた。少なくともぼくがここに越してきて以来、路地に違法駐車されたままの60年代風の真っ赤な自動車に先生は背を預けていた。砂ぼこりの中、長年眠り込んでいた車体の光沢は、とうの昔にこの街に奪われていた。黒服に山高帽を被った先生は相変わらずのギョロ目と痩身で、ぼんやりとパイプを吹かしていた。
「ご無沙汰しております」
「久方ぶりだね。どうだい、調子は。この街で暮らす君の身は案じてもいたのだけれど、いかんせん暇がなくてね。ついつい手紙もサボりがちになって、すまなかった」
「相変わらず、よく解らないことをしてはよく解らない人たちに怒られてる夢を見ています」
「そうかい。息災ならそれでいい」と先生はそっけなく言った。
先生の見た目は、ずいぶんと若く見えた。先生は都市に住むことを許された人間だから、いつまでも溌剌としていられるのだろうか。この砂漠の街で暮らしていると、時々自分の年齢が解らなくなる。みな、服や紙に砂塵が付くのを厭ってほとんど外出をしないので、他人と顔を合わせることも稀である。かくいうぼくもどれくらいぶりに下宿から出たか定かではない。息災なことには違いないが、誰もが死んでいるように生きているのだ。
「それにしても、久しぶりだ。君に会うのもそうだが、この街に来たのは実に20年ぶりだよ。まあ、立ち話もなんだ、早いところ僕の方の用事を済ましてしまって、飯でも食おうじゃないか。付き合ってくれるかな?」
「勿論です」
「じゃ、行こうか」
そう言うと、先生は上着のポケットからジャラジャラと音を立てながら鍵束を取り出した。先生はその中の一つを迷いなく選んで、自動車の鍵穴を回した。
「これ、先生の車だったんですか? ずいぶん前から、ここにありましたけど」ぼくは思わず尋ねた。
「20年前からここに停めてあるよ。ぼくがまだ学生で、この街に住んでいたころ、友人と金を出し合って買ったんだ。ジャンク品だったから、買った状態ではほとんど動かなかったのだけど、どうにか修理してね。その時、ついでに色も塗ったんだ。もとは透き通るような水色だった」
「20年も。よく撤去されなかったですね」
「されないさ。この街では変わろうとしないものはいつまで経っても変わらないんだ。まあ、砂まみれになってはいるけど。さあ、乗って」
 先生に促されて、後部座席に乗り込んだ。ドアを開けたとたんに、車の内部に潜り込んでいた砂が久しぶりの外気に触れてつかの間、騒ぎを起こした。砂を払ってどうにか一人分の座席を確保して腰掛けると、つま先に何かが触れた。拾い上げてみると、それは一冊の本であった。表紙も背表紙も炭化してしまっていて、題名は判読できなかった。ぼくはそれをトランクに放り投げた。
「ところで、今日はどちらに?」と訊くと、
「ある工場に行くんだ。ある本をこの世から消そうと思って」と先生は振り向かずに答えた。
車は故障もしていないらしく、エンジンをかけるとそろそろと走り出した。道中、会話はなかった。ぼくはぼんやりと考え事をしていた。後部座席というのは不思議な空間だなと思った。どこかへ向かっていることは確かだが、行き先を決めるのは自分ではない。それはたとえ後ろ向きのままでも、生きてゆける空間に思えた。遠くには革命記念塔の頭が見えて、街路には山茶花が咲き乱れていた。
 車が停まる。どうやら着いたらしかった。先生は運転席を降りて、車の後ろに回りトランクを開けるとぼくが放り投げた本を拾い上げた。
「待っていてくれ」と言い残して先生は工場に向かった。車内の埃っぽい空気から逃れたかったので、ぼくもドアを開けて降りた。手持ち無沙汰になって上着のポケットを手で探ると、煙草の箱がふたつ出てきた。「曙光」と「地下室」という名前の煙草だった。「地下室」の箱から一本取りだして、マッチで火を点けた。頭上に浮かんだ煙は、いったんカメレオンのような形を作ったかと思うと数秒後には文字通り霧散した。遠目からは、先生が戸口で技師らしき男と話しているのが見えた。先生は技師の話に相づちを打ちながら腕時計を外し、それを彼に手渡す。技師は書類に何か書き込み、ちぎって先生に見せる。先生は本を小脇に抱えたまま、踵を返してこちらに戻ってきた。
「煙草、一本貰える?」
ぼくは「曙光」のえんじ色の箱から一本抜いて先生に差し出した。
「どうなりましたか」
「この砂の本はどうも対象外らしくてね。まあ、仕様がない。君にあげる」
手渡された本をまじまじと眺めて、ぼくがこの本を読むことは恐らくないだろうと思った。60年代風の車の中で砂にまみれていた本なんて、内容がどうあれ、この時代には似つかわしくない。先生の咥えている煙草の先からは、尋常でない量のどす黒い煙が流れ出て、周囲の風景を濁らせていた。
 煙を手で払って、ふと顔を上げると、先生の傍らに浮浪者じみた男が立っていた。男の顔には靄がかかっていて、その輪郭と表情は判然としなかった。男の右手には柄も刃も銀色に鈍く光るハサミが握られており、その切っ先をこちらに向けると、男は小声で言った。
「時計を寄越せ。さもなければ、貴様の目玉をくりぬく」
ぼくらは思わず駆け出し、角を曲がったところにあった映画館に逃げ込んだ。切符は買わなかった。奇妙なことに、男二人が息急いて駆け込んできたというのに、観客は凝とスクリーンを見つめ続けてているのだった。まだ慣れない暗闇の中で眼を細めると、彼らがマネキン人形であることが解った。スクリーンには膝を抱えて海を見つめる少年と少女の背中が映し出されていた。不意に映画館の隣には共同墓地があって、薄暗いプレハブ小屋の中で三匹の黒猫がじゃれあって蛾を殺している映像がぼくの脳裡に浮かび、その瞬間、この状況が抜き差しならぬものであることを理解した。間を置かず、男が肩を揺らしながら入ってきた。ぼくと先生の前で立ち止まると、男は黙ってハサミを突きつけてきた。ぼくは破れかぶれになって、もう素直に時計を渡してしまおうと思い、左腕に目線を移し、ふと思い出した。ぼくの時計は随分前から電池が切れていて、針が止まったままだったのだ。すると今度は急にぼくはそわそわした気持ちになって、どうしたらいいか解らなくなってしまった。差し出すべきものが手元にあるのに、おそらくそれは役に立たないと思うと途方もなく切なくなった。内蔵を圧迫されたような心持ちで、男の眼の辺りを見つめると、「そんなら要らん」と男は吐き捨てるように言った。僕は胸を撫で下ろしたが、問題は先生だった。さっきの工場で先生は修理工に自分の時計を渡してしまっていた。ところが先生は慌てず、ポケットを探り、金色の懐中時計を差し出した。男はそれを奪うと、早足に逃げていった。
 映画館を出て、ぼくは先生に尋ねた。
「どうして二つも時計を持っていたんですか」
「この街ではよくあることだからね、うん。用心して持ってきておいたんだ」
「時計泥棒がですか」
「そうだよ。さあ、用事は済んだ。約束通り、飯でも食いに行こう。このあたりでどこかうまいところ、知らない?」
先生はあっけらかんとした顔でぼくを見つめた。
「ぼくにはこの街のことが、よく解りません」
 ぼくは今にも泣き出しそうだった。

ユートピアはいずこ


 ホセ・ムヒカが「世界一貧しい大統領」というフレーズで最近やたらとメディアに取り上げられるようになった昨今。ホセ・ムヒカ氏は若かりしころ極左ゲリラ組織「ツパマロス」に参加し、社会主義革命を目指したものの、独裁政権下で投獄され10年以上収監された。2010年3月から2015年2月までウルグアイ大統領をつとめる。有名な2012年リオ・デ・ジャネイロでの演説がこちら。ここまでが基本情報。

 昨日も同氏へのインタビューがNHKで放送されていた。ムヒカ氏の基本的な思想は「ハイパー消費社会」の否定。「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」とし、「カードの支払いに追われる人生など馬鹿げている」と主張している。日本社会に対しても、経済発展を評価しながらも「信用を勝ち取るためには着物を捨て、ネクタイを締めなければいけなかった」と、その精神性の変化に疑問を投げかけた。

 また、同氏は「国家の指導者は多数決で選出されるのだから、多数派と同じ生活をするべきだ」とし、給与の90%を慈善団体に寄付し、自身は10万円以下で生活している。消費社会に疑問を投じ、行動を自身の第一原理とした政治家なら、ほかにもいる。例えば、フィデル・カストロだ。しかし、彼の行動はあくまで理想主義的なものがあって、鉄人フィデルだからこそ可能であろう行動や規範を市民にも課してしまった。そこにキューバ革命政権が瓦解を始めた要因の第一歩があるような気がする。一方、ムヒカ氏は自身の行動を市民に合わせているのだから、無理がない。ありもしないユートピアを目指すのではなく、現状をユートピアに近づけてゆく。ムヒカ氏の政治理念で、評価すべき点はまさにここにあるのではないだろうか。

 だからこそ、日本人(もとい日本及び欧米先進諸国のメディア)が諸手を挙げてムヒカ氏を絶賛するのはかなり違和感があると思うのですよね。社会が日本のように高度に経済化・インターネット化してしまったからには、もう引き下がれないというか、今更「クレジットカードを焼却し、日本人よ、みなキモノに戻ろう!」などと言い出そうものなら、それこそナンセンスというか、時代錯誤も甚だしい発言で、ちょっと危ない思想の持ち主と思われること間違い無しです。部分的にはムヒカ氏の反ハイパー消費社会思想を見習うところもありつつも、その理念を鵜呑みにしてはいかんと思うのです。

 さて、あくまで文化的側面を考えれば、ウルグアイは決して貧しい国とは言えない。かのボルヘスも「タンゴの起源はウルグアイにある」とどこかに書いていたし(出典未確認)、ガウチョ文学 La literatura gauchesca もウルグアイ文学の主要な文学ジャンルのひとつだ。19世紀の後半には幻想小説の巨匠オラシオ・キローガ、20世紀にはフアン・カルロス・オネッティやマリオ・ベネデッティなどの大家も輩出している(ただし、その大半が後に亡命し、国を離れている)。

 ムヒカ氏の思想に共通するものは、ウルグアイに古くから根付いてるものだと言えなくもない。20世紀の前半にはすでにホセ・エンリケ・ロドーが『アリエル』で物質主義を批判しているし、歴史家エドゥアルド・ガレアーノもその著作で米国による経済搾取を広く論じている。ムヒカ氏の手によって、ウルグアイの希求したユートピアは100年ののち結実の目をみている……のだろうか?



2015年10月7日水曜日

ペルーの恋する若者


 マリオ・バルガス=リョサ(1936−)はペルーの小説家。1959年に処女短編集『ボスたち』を発表。同作でレオポルド・アラス賞を受賞。1963年に初の長編『都会と犬ども』を出版(うろ覚えですが、前年にブレーベ叢書賞を受賞し、その報償? として翌年に出版という流れ。そのためか、発表年が1962年となっている資料もよく見かけます)。1966年には『緑の家』を出版、1967年に同作でロムロ・ガジェゴス賞を受賞。その後も『ラ・カテドラルでの対話』(1969)、『パンタレオン大尉と女たち』(1973)、『フリアとシナリオライター』(1977)とほぼ3年おきに長編小説を書き続け、2010年にはノーベル文学賞まで受賞。

 と、ここまではバルガス=リョサの前中期のおさらいというか、個人的なお勉強。なんというか、賞をとりすぎではないか。

 バルガス=リョサは『パンタレオン大尉と女たち』以降、コメディ・タッチな作風にも挑戦した。続く『フリアとシナリオライター』もその流れに組み込むことができるようで、いろんな意味でバルガス=リョサらしからぬ小説ではある。言うなれば、『金閣寺』や『仮面の告白』を三島的なものと想定して、『命売ります』を読んで肩すかしを食らうような感じ。ただ、ノーベル文学賞の受賞理由に「権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた」とあり、いちおう『フリアとシナリオライター』からこれに似た構図を読み取ろうとすれば不可能ではありません。つまり、結末は「敗北」というよりむしろ大団円といった感じですが、叔母さんと結婚しようとする<僕>と、それを阻止しようとする、いかにも強権的な父との対立を「個人の抵抗と反抗」と「権力」と解釈することもできるのではないかと思うわけです。この小説をいわゆるビルディングスロマンとして読むのは、かなり妥当な感覚ではないでしょうか。

 『フリアとシナリオライター』は20章立ての構成。奇数章は作者と同名の<僕>ことマリオ・バルガス=リョサの物語。中心となるのは<僕>が働くラジオ局にやってきた<物書き先生>ことペドロ・カマーチョの話と、<僕>とフリア叔母さんのドタバタ恋物語。偶数章にはペドロ・カマーチョの書いたものとおぼしきシナリオが配置されている。それぞれのシナリオは独立しているはずだが、後半に進むにつれ、ペドロ・カマーチョの神経衰弱をあらわすかのように、筋も登場人物も混然となってゆく。

 あくまで個人的な感覚だが、やはりバルガス=リョサはリアリズムの作家という印象がとみに強い。バルガス=リョサには『果てしなき響宴』というフローベール論があるが、それも納得という感じだ(ちなみに、与太話としてホセ・ドノソは『ラテンアメリカ文学のブーム』でフリオ・コルタサル、ガルシア=マルケス、カルロス・フエンテスにバルガス=リョサを<ブーム>の四人衆と呼んでいます。各々の敬愛する作家が、順にエドガー・アラン・ポオ、フォークナー、バルザック、フローベール。どれも納得?)それだけに、ペドロ・カマーチョが後半になってダウンしてしまうのが、いかにもバルガス=リョサらしい筋だと思った。なんというか、「文学一辺倒ではいかん!」という感じ? 分からないですけど。

 個人的に興味があるのが、バルガス=リョサと実存主義の関係。『都会と犬ども』のエピグラフにはサルトルの劇『キーン』からの一節が使われていたり、後に彼が政界へ進出しようとするときにも、その政治主張のなかにサルトルを匂わせるような部分があったりとなかなかおもしろそうなのです。そもそもバルガス=リョサが「全体小説」を目指す作家だとはよく言われていますしね。

こんな思惑を持ちつつ、『フリアとシナリオライター』を読むと、実存主義に言及している場面が2つありました。

ハビエルがその夜の締めくくりに<ネグロ=ネグロ>を選んだのは、そこが知的なボヘミアンの溜まり場として――木曜日にはちょっとしたイベント、つまり一幕芝居や独り芝居、リサイタルが開かれ、画家、音楽家、作家が集まった――評判の店だったことに加え、それがサン・マルティン広場のアーケードの地下にあり、テーブルは二十席そこそこ、そして僕たちが「実存主義的」と考えていた装飾を施した、リマで最も照明の暗いナイトクラブだったからだ。(247頁)

「今月も聴取率の記録を更新したんだ。つまり、ストーリーをブレンドするという思いつきが功を奏してるってことだ。親父はああいう実存主義的なやり方を不安がっているけれど、結果が出てるんだ。数字を観てくれ」(297頁)

ここでの「実存主義」という語は明らかに本来とは異なった意味で使われています。詳しくはサルトルの『実存主義とは何か』にありますが、少なくとも1945年当時のパリ(特にサン・ジェルマン・デ・プレ)や1950・60?  年代のペルーではある種の若者文化、あるいは1950年代の英国で流行した「怒れる若者」のような反体制的な若者を指す言葉として「実存主義」というタームが使われていたということでしょう。

デビュー当時、バルガス=リョサが「ペルーの怒れる若者」と呼ばれていた由縁も案外この辺にありそう……?

「魔術的リアリズム」に関する覚書①


 今日ではラテンアメリカ文学の専売特許ともみなされるようになってしまった、「魔術的」リアリズム。その起源はドイツにある。

それは、表現主義と抽象全盛の時代に突如として登場してきた異様なリアリズムであった。大気が突然アウラを失って、事物は真空のなかに置きざりにされる。世界関連から切りはなされて、いきなりそこにあるもの。その魔術的輝き。日常現実のごくありふれた対象を描きながら、当の事物にこの世の外の、いわば世界関連外の光を照射して、事物を「形而上的妖怪的」(キリコ)空間のなかに立ち上らせるリアリズム。(種村季弘『魔術的リアリズム』、筑摩書房、2010)

同書は、両大戦間の1920代ドイツに突如立ち現れ、そして消えたリアリズムについて論じたものである。そのリアリズムは「ノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)」あるいは「魔術的リアリズム」と称された。

 1920年代のドイツは社会的・経済的不安を抱えつつも、電気の普及に伴い、文化的には隆盛をむかえた時代でもあった。それらを象徴するドイツ表現主義の映画が、『カリガリ博士』と『メトロポリス』である。

 こうした表現主義(あるいは印象主義)に対する反動として、現れたのが「メランコリーの芸術」たる「ノイエ・ザハリヒカイト」であり、「魔術的リアリズム」であった。

続く……



2015年9月30日水曜日

こころのなかにかみさまをもつこと


 J.D.サリンジャー(1919−2010)はニューヨーク生まれの米国作家。『ライ麦畑で捕まえて』(1951)や『ナイン・ストーリー』(1953)は青春の必修科目的な読みものとしてあまりにも有名。そんなサリンジャーの『フラニーとズーイ』村上春樹訳(新潮社)を入手した。『ナイン・ストーリー』の短編のひとつ「バナナフィッシュにうってつけの日」にはシーモア・グラースという人物が登場するが、フラニーとズーイは彼の末妹と末弟だ。



 『フラニーとズーイ』は2部構成になっている。第1部が「フラニー」。駅のプラットフォームでレーンという青年が、恋人フラニーからのラブレターを読みながら、彼女を待っている。しかし、到着した彼女はなにやら虫の居所が悪い様子で、レストランに行っても何かとレーンに突っかかる。ふたりのあいだには険悪な雰囲気が漂い、とうとうフラニーはトイレに行こうと席を立ったときに失神して倒れてしまうのだが、筋としてはこれでおしまい。この「フラニー」は100ページにも満たない部なのだが、この時点では「ああ、いつものサリンジャー節だな」といった感じ。

 第2部が「ズーイ」。ページ数としては「フラニー」の3倍ほどだろうか。バスタブに浸かって煙草を吸いながら、手紙を読んでいるズーイ。それは山奥に閉じこもって世捨て人のような生活を送っている長兄バディーからの長い手紙であった。そこに母ベッシーが闖入してきて、フラニーが部屋に閉じこもって出てこないと相談をする。母親の小言に適当に相づちを打ちながら、バスルームから出たズーイはフラニーの部屋へ向かい、妹に忌憚なくお説教を食らわせる。どうやらフラニーは何か宗教的な悩みから、半鬱状態に陥っているようだ。フラニーが泣き出し、ズーイを部屋から追い出す。少し経って、グラース家の電話が鳴り、受話器をとったベッシーがフラニーにかわる。それはズーイが兄バディーのふりをしてかけた電話であった。通話の途中でフラニーは話している相手がズーイであることに気づく。ズーイはかつてシーモアが自分に話してくれた「太ったおばさん」の話をフラニーにして、電話を切る。

 筋だけを追えば、なんのことだか分からない小説だ。特に「ズーイ」は宗教的な問題を兄弟がああでもない、こうでもないと話しているだけで、スッと飲み込めるような内容では決してない。にもかかわらず、飽きることなく読めてしまうのはサリンジャーの巧みな手腕によるものだろう。というか、サリンジャーの小説にはまともな筋があった試しなんてないような気がする。小説全体にもやっとした雰囲気が漂うなか、ズーイの「人間がみんな鉄でできているなんて思っちゃいないよ」という台詞でサッと視界が晴れるような感覚は快感だ。ありていに言えば、破天荒で口の悪い兄ちゃんが、喧嘩ばかりしている妹のことを、それでも心配していたという結末になるだろう。

 ちなみに、サリンジャーは自分の作品の映画化を拒否しているばかりか、翻訳に解説をつけることすら許していないのだけれど、この文庫版には村上春樹のブックレットのようなものが挟んであり、そこで訳者は冒頭の駅の場面とズーイがバスタブに浸かっているシーンが印象的だったと語っている。

 「なぜ、ひとは(特に多感な時期の若者は)サリンジャーを読むのだろう」という問いにささやかに答えるような一作だ。こころのなかにかみさまをもつこと。



2015年7月6日月曜日

フリオ・コルタサルと<ブーム>


 <ブーム>を語るフリオ・コルタサルのインタビュー。出版社や文学賞の存在がラテンアメリカ文学の<ブーム>を形成するのに一役買っていたという意見が支配的である一方(それはそれで、その通りだとは思うが)、当事者であったコルタサルはそれを真っ向から否定している。こんなに声を荒げて力説しているコルタサルは珍しい。「我々は独りで書いたんだ!」のあたりに、なんというか、作家コルタサルのある種の矜持のようなものを感じる。

以下は拙訳。

<ブーム>という用語は英語に由来するものであり、その嘆かわしい「弱さ」は政治的に大変意味深いものだと言える。私は<ブーム>は偶然の産物に過ぎなかったと考えている。歴史において、偶然は論理よりも実にうまくことを運ぶものである。ラテンアメリカが帝国主義によって支配されていたあの時代に、たまたま数人の卓抜した作家が誕生し、多くの作品を残した。その結果として大陸全土に、突如ある意識が生まれたのである。<ブーム>は出版社の術策の産物でもあった。出版業界は<ブーム>に向けてプロモーションを投げかけたのだ。私はその<ブーム>の登場人物のひとりでもあるので、そのことについて話す資格はないかもしれないが、私の作品は孤独と貧しさの中で、出版社によるわずかほどの援助も無しで書かれたのだということは言える。私の本、フエンテスの本、ガルシア=マルケスの本、バルガス=リョサの本が膨大な数の人間によって読まれ、人から人へと手渡されているということに気がつくやいなや、すぐさまこれらの作家の作品は出版する必要があると理解して彼らは飛びついて来たのだ。編集者も馬鹿ではなく、金を稼ぐためにいるのだからね。彼らが我々を開拓したことはなかった。我々は独りで、しかもラテンアメリカから遠く離れた土地で作品を書いたのだ。ガルシア=マルケスも、バルガス=リョサも、アストゥリアスも、そして私も遠く離れた土地で書いた。編集者の友人もいなければ、出版社もなかった。出版社は後からついてきたのだ。それは<ブーム>がプロモーションの目的で作られた産物であったと主張する、現実を歪める企てであった。なぜなら、そのプロモーションのうち、ひとつとして作家や文学を救ったものなどなかったのだから。大きな宣伝をすれば、本を売り出すことくらいはできる。しかし、本それ自体にそれだけの価値がなかったのならば、それがどのくらい続くというのだ?
 <ブーム>と呼ばれる現象が私にもたらしたもので、喜ばしいことがふたつある。まず、我々の作品が初めて同国人によって読まれるようになったということだ。私自身、ラテンアメリカの作家を読まなかった世代に属している。ボルヘスやロベルト・アルルトといったわずかばかりの作家はいたが、意識はヨーロッパに向けられていた。我々が読んでいたのはグレアム・グリーン、フランソワ・モーリアック、ヘミングウェイといった素晴らしい作家たちの最新作だった。しかし、我々の現実に対しては背を向けていた。<ブーム>と呼ばれた10年間で、数百万ものラテンアメリカの人間が目を覚まし、自分たち自身に自信を抱くという素晴らしい事実に気づくことになった。なぜなら、もし私がアルゼンチンの作家に自信を持っているのならば、それは私自身にも自信を持っているということに他ならないのだから。私は社会、文化、歴史的リズムの一員として自信を抱くようになった。そうして、我々は突如として我々自身の作品を読んでくれる大陸を手に入れたのだ。そのことはアイデンティティの追求という、革命的な兆候を意味していた。我々はラテンアメリカの人間であるということをますます自覚するようになったのだ。ダリーオは言った。「何百万の人が英語を話さないだろうか?」(元のフレーズは「何百万の人が英語を話すだろうか?」)「我々はスペイン語を話すだろう!」ふたつめはスペインに関係するものだ。スペインの人間が我々ラテンアメリカの作品を読むということは、私にとって本当に喜ばしいことだ。親愛の情を持って、兄弟愛を持って私たちの作品を読んでくれる。大変長い期間を経た後でのこの接触は実りの多いものだ。この接触は我々を再び、結びつける。スペインとラテンアメリカ諸国の差異を作り出したエルナン・コルテスやピサロはもはや必要ないのだ。今や我々は言語によって結びつけられただけの集合体なのである。そして、願わくば同じ歴史的運命によって結びつけられることを。