2015年10月7日水曜日

ペルーの恋する若者


 マリオ・バルガス=リョサ(1936−)はペルーの小説家。1959年に処女短編集『ボスたち』を発表。同作でレオポルド・アラス賞を受賞。1963年に初の長編『都会と犬ども』を出版(うろ覚えですが、前年にブレーベ叢書賞を受賞し、その報償? として翌年に出版という流れ。そのためか、発表年が1962年となっている資料もよく見かけます)。1966年には『緑の家』を出版、1967年に同作でロムロ・ガジェゴス賞を受賞。その後も『ラ・カテドラルでの対話』(1969)、『パンタレオン大尉と女たち』(1973)、『フリアとシナリオライター』(1977)とほぼ3年おきに長編小説を書き続け、2010年にはノーベル文学賞まで受賞。

 と、ここまではバルガス=リョサの前中期のおさらいというか、個人的なお勉強。なんというか、賞をとりすぎではないか。

 バルガス=リョサは『パンタレオン大尉と女たち』以降、コメディ・タッチな作風にも挑戦した。続く『フリアとシナリオライター』もその流れに組み込むことができるようで、いろんな意味でバルガス=リョサらしからぬ小説ではある。言うなれば、『金閣寺』や『仮面の告白』を三島的なものと想定して、『命売ります』を読んで肩すかしを食らうような感じ。ただ、ノーベル文学賞の受賞理由に「権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた」とあり、いちおう『フリアとシナリオライター』からこれに似た構図を読み取ろうとすれば不可能ではありません。つまり、結末は「敗北」というよりむしろ大団円といった感じですが、叔母さんと結婚しようとする<僕>と、それを阻止しようとする、いかにも強権的な父との対立を「個人の抵抗と反抗」と「権力」と解釈することもできるのではないかと思うわけです。この小説をいわゆるビルディングスロマンとして読むのは、かなり妥当な感覚ではないでしょうか。

 『フリアとシナリオライター』は20章立ての構成。奇数章は作者と同名の<僕>ことマリオ・バルガス=リョサの物語。中心となるのは<僕>が働くラジオ局にやってきた<物書き先生>ことペドロ・カマーチョの話と、<僕>とフリア叔母さんのドタバタ恋物語。偶数章にはペドロ・カマーチョの書いたものとおぼしきシナリオが配置されている。それぞれのシナリオは独立しているはずだが、後半に進むにつれ、ペドロ・カマーチョの神経衰弱をあらわすかのように、筋も登場人物も混然となってゆく。

 あくまで個人的な感覚だが、やはりバルガス=リョサはリアリズムの作家という印象がとみに強い。バルガス=リョサには『果てしなき響宴』というフローベール論があるが、それも納得という感じだ(ちなみに、与太話としてホセ・ドノソは『ラテンアメリカ文学のブーム』でフリオ・コルタサル、ガルシア=マルケス、カルロス・フエンテスにバルガス=リョサを<ブーム>の四人衆と呼んでいます。各々の敬愛する作家が、順にエドガー・アラン・ポオ、フォークナー、バルザック、フローベール。どれも納得?)それだけに、ペドロ・カマーチョが後半になってダウンしてしまうのが、いかにもバルガス=リョサらしい筋だと思った。なんというか、「文学一辺倒ではいかん!」という感じ? 分からないですけど。

 個人的に興味があるのが、バルガス=リョサと実存主義の関係。『都会と犬ども』のエピグラフにはサルトルの劇『キーン』からの一節が使われていたり、後に彼が政界へ進出しようとするときにも、その政治主張のなかにサルトルを匂わせるような部分があったりとなかなかおもしろそうなのです。そもそもバルガス=リョサが「全体小説」を目指す作家だとはよく言われていますしね。

こんな思惑を持ちつつ、『フリアとシナリオライター』を読むと、実存主義に言及している場面が2つありました。

ハビエルがその夜の締めくくりに<ネグロ=ネグロ>を選んだのは、そこが知的なボヘミアンの溜まり場として――木曜日にはちょっとしたイベント、つまり一幕芝居や独り芝居、リサイタルが開かれ、画家、音楽家、作家が集まった――評判の店だったことに加え、それがサン・マルティン広場のアーケードの地下にあり、テーブルは二十席そこそこ、そして僕たちが「実存主義的」と考えていた装飾を施した、リマで最も照明の暗いナイトクラブだったからだ。(247頁)

「今月も聴取率の記録を更新したんだ。つまり、ストーリーをブレンドするという思いつきが功を奏してるってことだ。親父はああいう実存主義的なやり方を不安がっているけれど、結果が出てるんだ。数字を観てくれ」(297頁)

ここでの「実存主義」という語は明らかに本来とは異なった意味で使われています。詳しくはサルトルの『実存主義とは何か』にありますが、少なくとも1945年当時のパリ(特にサン・ジェルマン・デ・プレ)や1950・60?  年代のペルーではある種の若者文化、あるいは1950年代の英国で流行した「怒れる若者」のような反体制的な若者を指す言葉として「実存主義」というタームが使われていたということでしょう。

デビュー当時、バルガス=リョサが「ペルーの怒れる若者」と呼ばれていた由縁も案外この辺にありそう……?

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