2017年9月4日月曜日

「崩壊」の感覚

 アテネ・フランセでパトリシオ・グスマンの特集上映が催されていた。いまのところ、日本で放映されているのは8作。製作年代順に並べると:

1975『チリの闘い 第一部 ブルジョワジーの叛乱』
1976『チリの闘い 第二部 クーデター』
1978『チリの闘い 第三部 民衆の力』
1997『チリ、頑固な記憶』
2001『ピノチェト・ケース』
2004『サルバドール・アジェンデ』
2010『光のノスタルジア』
2015『真珠のボタン』

今回観たのは『チリ、頑固な記憶』、『ピノチェト・ケース』、『サルバドール・アジェンデ』。初期の『チリの闘い』三部作と最新のチリ三部作(『光のノスタルジア』、『真珠のボタン』に続いてアンデス山脈を舞台に新作を撮る構想があるらしい)のあいだに発表された「回想三部作」である。

 言うまでもなく、いずれもチリの9月11日クー・デタを主題に据えたドキュメンタリーだ。作品の連続性は、随所に『チリの闘い』の映像が引き継がれていることからも明らかだろう。『チリの闘い』第一部のラストと第二部の冒頭で提示されるアルゼンチン人カメラマン、レオナルド・ヘンリクセンが銃弾に倒れるシーンはその一例だ。このカットは『サルバドール・アジェンデ』で再び引用されている。
 また、『チリの闘い』で最も幻想的な映像といえば、脚をぴんと伸ばした、男性か女性かも判然としない長髪の人物が荷車を引き、滑るように走っているシーン(写真参照)だろう。これも『チリ、頑固な記憶』と『サルバドール・アジェンデ』で再び登場する。

『チリ、頑固な記憶』Chile, la memoria obstinada では、『チリの闘い』を鑑賞する人々の様子が克明に映し出されているが、その反応は必ずしも画一的ではない。クー・デタをよく知らない若者たちのなかには、「人間にこんな残虐なことができるなんて」と泣きだす者もいれば、ピノチェトの行為を評価する学生もいる。ピノチェト肯定論者によれば、「彼はチリが内戦・分裂状態に陥るのを回避し、被害を最小限に食い止めた」のだと言う。グスマンは決して、ピノチェトを絶対悪の象徴として恣意的に演出しない。こうした点に、作品をアジェンデ賛美の単なるプロパガンダに落とし込むことなく、あくまでドキュメンタリー監督たろうとするグスマンの矜持がうかがえる。
 終幕部には、クー・デタ後に「行方不明」となったカメラマン、ホルヘ・ミューラー・シルバの話が出てくる。

 続く『ピノチェト・ケース』El caso Pinochet は、1998年、ジェノサイドの容疑でピノチェトがロンドンにて逮捕され、裁判にかけられた事件を扱っている。英国からの引き渡しを求めたのはスペインのフアン・ガルセス判事。アジェンデ政権下で政治顧問として働いており、クー・デタを逃れ、マドリッドに亡命した人物だ。この裁判の顛末は、アリエル・ドルフマン『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判——もうひとつの9・11を凝視する』(宮下嶺夫訳、現代企画室、2006)に詳しい。
 スペインとチリは政治的悲運という点で、根深い痛みを共有している。この「ピノチェト事件」の調査に着手したのは、カルロス・カストレサナなる人物であるが、彼は自身もまたフランキスモに虐げられた者のひとりであったと語る。スペイン内戦が終わり、フランコが政権を掌握したのちの1940年代初頭、チリはスペインから2500人もの難民を受け入れた。彼らをフランス大使館経由で亡命させたのが、当時外交官を勤めていたパブロ・ネルーダだ。
 なぜピノチェトが英国に滞在していたかという理由は、勾留中の彼をサッチャーが訪問する場面でつまびらかにされる。ピノチェトは自身が支配下におくチリ軍隊の武器をサッチャー政権下のイギリスから購入し、イギリスはフォークランド戦争でチリの支援を受けた。こうした1980年代の状況は、グローバル化経済の闇を浮き彫りにするものといえるだろう。
 また、グスマンが『チリの闘い』を撮影したフィルムを叔父イグナシオに託し、スウェーデン大使館経由で国外へと持ち出したという事実も、ここで語られている。

『サルバドール・アジェンデ』は、その名の通り、サルバドール・アジェンデの生涯を辿る伝記ドキュメンタリーだ。“El Chicho” と呼ばれた幼少期のアジェンデをよく知る Mama Rosa こと Zoila Rosa Ovalle の回想や、彼の思想形成に影響を与えたイタリア人アナキスト Juan de Marchi なる人物の情報が提示され、なかなか興味深い。実の娘イサベル・アジェンデ(作家のイサベル・アジェンデではない)とカルメン・パスも登場する。また、ここでは、レネ・シュナイダー将軍の暗殺が米国の支援のもと行われたものであったことなど、ニクソン政権下におけるCIAの暗躍が詳しく語られている。
 このフィルムで最も印象的なのが、多国籍企業の横暴を糾弾するアジェンデの国連演説だ。1972年に撮影された、カラーの映像である。同じ頃に撮影された、モネダ宮への空爆を含む『チリの闘い』や、カストロのチリにおける演説は、当然モノクロだ。こうした白黒映像の連続に、突如としてカラーの映像が挿入され、アジェンデの肉体性、そしてクー・デタの現実性がにわかに蘇る。この対比に、少なくともぼくはめまいを禁じえなかった。

 上映後には、太田昌国さんのトークがあった。『チリ、頑固な記憶』での学生たちの反応を取り上げ、「崩壊」の感覚がない人びとがその記憶を共有することの難しさ、およびその重要性を語った。
 当然、ぼく等はモネダ宮殿が「崩壊」する映像をリアルタイムで観ることがなかった。ブラウン管越しにベルリンの壁の「崩壊」や、ソ連の「崩壊」を目にすることもなかった。また、生まれてはいたにせよ、記憶には残らない90年代前半、日本で立て続けに流れた「崩壊」のイメージも、ぼく等の経験的記憶に存在していない。それでも、「崩壊」の記録——パトリシオ・グスマンの映像でも、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』でも、何でも構わないが——に触れることで、「崩壊」を擬似的にであれ追体験することは可能だろうし、それらはある種の既視感をぼく等に喚起することさえある。

 ぼく等の脳裏によぎる「崩壊」のイメージとは、もうひとつの9・11であり、あるいはその10年後の映像であるかも知れない。これが意味するのは「崩壊」のイメージが単独的には存在せず、連鎖的に結びつけられうるものであるということであり、そうである以上、1973年の映像はフィクションじみたものとして錯覚されるべきではないということだ。「崩壊」は、決して過去の遺物ではない。


2017年7月28日金曜日

サルトル「黒いオルフェ」メモ

「黒いオルフェ」(1948)はレオポルド・サンゴール編『ニグロ・マダガスカル新詞華集』の序文として書かれたサルトルの文章である。以下、内容のまとめと引用。

「われわれ」西欧人は、二度の大戦を経て、絶対的な審級を失ってしまった。本質的なものなど何もありはしない。「われわれ」が何者であるかを知るすべは一つ、それは「他者」であるニグロの目を通じて、「われわれ」を見つめ直すことである。

「それと言うのも白人は、相手に見られずに見るという権利を三千年にわたって享受し続けてきたからだ。白人は純粋な眼差しだった。[……]今日では、これらの黒い人びとがわれわれを見つめており、われわれの眼差しはわれわれ自身の眼に送り返されてくる。」(159

「かつて神権を有していたわれわれヨーロッパ人は、ここしばらく、アメリカやソヴィエトの眼差しの下で、自分たちの権威が崩れ去るのを感じていた。ヨーロッパはすでに地理上の偶然、アジアによって大西洋にまで押し出された半島にすぎなくなった。せめてアフリカ人の飼い馴らされた目の中に、自分たちの偉大さの片鱗を認めようとわれわれは望んでいたのだった。ところがもう飼いならされた眼はどこにもない。あるのはただ、われわれの大陸を裁く、野生の自由な眼差しだ。」(160)(つまり、眼差しを媒介とする、対他による対自の回復・復権とその頓挫。)

「私がここで示したいと思うのは、いかなる道を経てこの漆黒の世界に近づきうるかということであり、一見人種的に見える彼らの詩が、究極においては、あらゆる人間の歌であり、あらゆる人間のための歌であるということだ。」(162

「白人の労働者と同じく、ニグロもまたわれわれの社会の資本主義構造の犠牲者である。この状況は、皮膚の差を越えて、黒人が彼同様に抑圧されているある種の階級のヨーロッパ人と緊密な連帯関係にあることをあらわにする。」(164

黒人は詩体験を通じて自己を意識する。プロレタリアートはなぜそうではないのか? 理由は単純である。プロレタリアートは技術こそ、自己の解放の道具であると信じている。技術に関する用語は客観的であらねばならない。「〈物質〉は歌をうたわないのだ。」

けれども、プロレタリアートと黒人が犠牲者という点で同胞であるとしても、各々の事情は全く異なる。「白人の中の白人であるユダヤ人なら、ユダヤ人であることを否認し、自分も人間の中の人間であると宣言することができる。ニグロはニグロであることを否認することもできなければ、あの無色で抽象的な人類となる権利を要求することもできない。彼は黒いのだから。」(164

ヨーロッパの労働階級は、彼の状況の客観的性格(例えば、富の欠乏といった)によって被害者となっている。けれども、黒人が被害者であるのは、つまり差別の対象となっているのは主観的性格(つまり、心的印象)によってである。「従って、人種意識はまず黒人の魂の上に向けられる。」この黒人の思想と行為に共通する特質こそが、「ネグリチュード」と呼ばれるものである。

このように、黒人詩は主観性を帯びる。その目的はただ一つ、「黒人の魂を表明することだ。」(166

黒人は肉体と精神の両面で追放を被っている。肉体、すなわちアフリカ大陸からの追放と、精神、すなわち白人文化という壁からの追放である。かくして、ネグリチュードの詩人のうちには「祖国復帰」と「黒い魂」へのテーマが混ざり合っている。これをサルトルは、「オルフェ的」と呼んでいる。

ネグリチュードの主導者たちのジレンマ。それは、フランス語で彼らの福音を認めなければならなかったことだ。アフリカの各地から連れてこられた彼らにはフランス語以外の、共通言語がない。幼い頃から触れてきたフランス語は、外国語ではないにせよ、彼自身の魂をぴったりと言い当てることができない。しかし、この言語の蹉跌こそが、詩を生み出しうるのだ。「彼らが話す国語(langage)の内部にさえ抑圧者が姿を現す以上、彼らはこの国語を破壊せんがためにこれを話そうとするだろう。」(172

例えば、《黒と白》というような対になる表現を用いるとき、興味深いことが起こる。白人は潔白を意味するのに「雪のように白い」というだろう。卑劣さを「黒さ」と呼ぶだろう。このヒエラルキー(コノテーションといっても良い)を覆さぬうちは、黒人は常に自分を責めたてることになる。そして、この転覆が行われた時、それはすでに詩と呼ぶべきものになっているのだ。例えば、「潔白の黒さ」、「美徳の暗闇」といった具合に……

ここに至って、黒は色以上のものとなる。黒は悪全体、善全体を同時に含む。「白の持つ秘められた黒さ、黒の持つ秘められた白さというものがあり、存在と非存在の凍りついたきらめきがある。」(175

セゼールの詩はこのことを十全に語っている。「夜はもはや不在ではなく、拒否となる。」白い太陽の光を破壊する黒。こうしてニグロ革命家は、自身が否定そのものとなりおおせる。この闇の否定性こそが価値となる。「自由が夜の色となるのだ。」ニグロは、ネグリチュードの中で自分自身を発見し、そのものとなる。
エティエンヌ・レロへの批判。彼の詩法は、シュルレアリスムの模倣でしかない。「《骰子一擲》が存在の隠れた様相を引き渡してくれることを——さして信じもせずに——漠然と期待しながら、かけ離れた二つの表現のあいだに橋をかけようとするおきまりの手法である。」(179)(これはカルペンティエルが『この世の王国』の序文で行った指摘と重なる。)これはたかだか形式上の想像力の解放であり、せいぜい反対物の穏やかな統一といったものだ。

それに引き換え、セゼールの詩は一貫して、白人の文化を破壊する。白人のシュルレアリストが自己の内奥に寛ぎを見出すのに対して、セゼールが自己の内奥に見出すのは、頑として動かぬ復権要求と恨みである。「セゼールにおいて、シュールレアリスムの偉大な伝統は完成され、決定的な意味を持ち、同時に破壊される。」(181

重要なのは、セゼールが「詩が客体となることを欲求するシュールレアリスムの伝統を貫いている」ということだ。「セゼールの言葉は、ネグリチュードを叙述するのではない。指示するのではない。[……]彼の言葉はネグリチュードを作る。われわれの目の前でそれを構成してみせる。今やそれは、読者が観察し、学習しうる事物となる。彼が選んだ主観的方法はわれわれが先に語った客観的方法に合流する。他の詩人たちが黒人の魂を内面化しようとしているときに、彼は自分の外にこれを放逐するのである。」(182

さて、ネグリチュードとはいったい何であるか? まず言えることは、「白人はネグリチュードについて適切に語ることはできない。」なぜなら、白人はその内的経験を持っていないし、ヨーロッパの言語はそれを叙述しうるような言葉を欠いているから(何という、身もふたもない……)。ただ、ネグリチュードが純粋詩であるということは言えるだろう。

ハイデガーの用語を借りていえば、「ネグリチュードとは、ニグロの世界存在」に他ならない。つまり、いかなる反省にも先行して、ニグロ(性)は「世界のただなかに実存する(exister au millieu de monde)」ということだ。

西欧は技術を生み出したがゆえに、自然を純粋な量として捉え、外在性としてあらわにする。いっぽうで、ニグロは工作者となることを拒否したがゆえに、自然を蘇生させる。

「道具について白人は全てを知っている。しかし道具は事物の表面を引掻くだけで、持続、生命を知らない。これに反してネグリチュードとは感応による会得のことである。黒人の秘密とは、彼の実存の源泉と〈存在〉の根とが同一であるということだ。」(185

また、彼らの汎神論にも着目しなければならない。白人は神の手によってこねられた被造物である。それに対して、「われらの黒人詩人にとっては、存在は起ち上がる陰茎のように、〈無〉から出現する。」(187

ネグリチュードはその根本において両性具有であり、生命に満ち溢れている。加えて、ネグリチュードの詩は一貫して反キリスト教的であるにもかかわらず、その〈受難〉をその特徴としている。「自己の苦悩を意識する黒人は、いっさいの人間の苦悩を引き受け、すべての人間にかわって、白人にさえもかわって苦しむ人間として、自分自身の眼に描かれるのである。」(189

これらをまとめると:「黒人は〈生命〉に対する性的な感応であるかぎりにおいて〈自然〉全体と融合し、反抗的苦悩の〈受難〉であるかぎりにおいて〈人間〉としての自己の復権を要求する」(189)ものである。

こうした苦悩の体験によって、黒人の意識は歴史的なものになる。奴隷制はすでに過去のものとなったが、その底知れぬ悪夢から、彼らは目覚めているかどうかわからないのだ。

「黒人は一つの集団の記憶を共有している。」(192)パスカルによれば、人間は形而上学と歴史との非合理な合成物である。われわれが泥からつくられたのだとすればその偉大さは説明がつかず、かといって神の被造物だとすればあまりにも悲惨だ。これを飲み込むためには原罪という「失墜」に頼らねばならなかった。セゼールが自らの人種を「顚落した種族」と呼ぶのもこのためである。この点で、黒人の意識とキリスト教意識は比較しうる。奴隷制の鉄の掟は「過失」を、そして奴隷制の廃止は「贖罪」を思い起こさせる。しかし、この「過失」は彼自身のものではない。白人の過失である。黒人は無辜の生け贄なのだ。従って、黒人詩のほとんどが反キリスト教的であるのは、それが瞞着に他ならないことを見抜いているからである。

「苦しみの直感が集団的過去を授け、未来に一つの目的を与えるに応じて、ついには黒人は自己を歴史化する。」(193

ここに至って、人種は歴史性へと変化する。「ネグリチュードは、その〈過去〉及び〈未来〉ともろともに、〈世界史〉の中へ挿入される。」「いまや彼は自己の使命の上に、生きる権利を打ち樹てる。この使命はプロレタリアの使命とまったく同様、彼の歴史的状況に由来する。黒人は他の人間以上に資本主義の搾取に苦しんできたから、他の人間以上に反抗と自由への愛を獲得している。また誰よりも抑圧されたものなのだから、彼が自分自身の救済に努めるとき、必然的に彼はあらゆる人間の解放を追求していることになる。」(195

ネグリチュードは、在ること(être)と在るべきこと(devoir-être)との絶えず変化する輝きだ。それは人を作り、人はそれを作る。何より、それは「人種差別に反対する人種差別を創り出している」。ここで、ネグリチュードは(再び)プロレタリアートと接続される。弁証法的に考えよう。白人の覇権の正当性というテーゼに対して、ネグリチュードをアンチ・テーゼとして定立すること。ここから「人種のない社会における人間的なものの実現」という綜合が生じるだろう。「このように、〈ネグリチュード〉は己れを破壊する性質のものであり、経過であって到達点ではなく、手段であって最終目的ではない。」(197

黒人は、やっと見つけた自尊心たるネグリチュードの放棄を運命付けられている。それは純粋な自己超出であり、愛である。「〈ネグリチュード〉は自己を抛棄するその瞬間に自己を見出す。負ける〔滅びる〕ことを受け容れるその瞬間に、勝を収めるのである。」「苦悩にあふれ、だが希望にみちた神話、〈悪〉から生まれて〈善〉を孕んでいる〈ネグリチュード〉は、死ぬために生まれて生涯のもっとも素晴らしい瞬間においてすら死を感じ続けている一人の女のように生き生きとしている。それは不安定な休息であり、爆発的な固定性であり、自己を放棄する自尊心であり、一時的であることを自覚している絶対である。」(199

「〈ネグリチュード〉は、黒人がもう完全には帰れない郷愁の〈過去〉と、〈ネグリチュード〉が新しい価値にその場を譲るであろう〈未来〉とのあいだにかけられたあの緊張である。」「〈ネグリチュード〉は客観的なものの中に刻まれる主観性である。だから一篇の詩、すなわち一個の客体となった主観性(subjectivité-objet)の中に具象化されねばならない。」(200



サルトル, ジャン=ポール「黒いオルフェ」『シチュアシオンⅢ』佐藤朔ほか訳. 人文書院, 1964. pp.159-207.

2017年7月27日木曜日

レヴィ=ストロース『野生の思考』メモ



.「歴史と弁証法」
 サルトル批判。分析的理性と弁証法的理性を区別する根拠の疑わしさについて。サルトルは前者を未開人に与するものとし、後者を西欧的知性の特徴と捉えている。L. S. にとって、「弁証法的理性はつねに構成する理性である。それは、深淵に分析的理性が架け渡し、たえず延長し改善してゆく橋なのである」(?)。いっぽうで、「サルトルは怠惰な理性を分析的理性と呼ぶ」。
 サルトルの思想の根幹をなすのは、自己と他者の眼差しの相克である(対自と対他)。けれども、L. S. にとって「自我は他者に対立するものではないし、人間も世界に対立しない。人間を通じて学ばれた心理は「世界に属する」ものであり、またそれゆえに重要なのである」。それはちょうど数学的真理のようなものだ。サルトルは未開を「歴史なき」民族とみなしており、こうした「発育不全で畸形」の人類を人間の側に組み込もうと執心している。これに対する L. S. の反論。「人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の差異と共通性とで構成される体系の中に存する」。
 また、「サルトルが安易な対比をたくさん重ねて未開人と文明人との間の区別を強調するのは、彼が自己と他者の間に設定する基本的対立を、ほとんどそのまま反映している」。
 近代において、歴史には特権的な地位が与えられ、それはほとんど神話のように扱われてきた。歴史学は民俗学と相補関係にあるが、前者が多様な人間社会を「時間」の中に展開するのに対し、後者は「空間」に展開する。我われは自らの生成を連続的変化として捉えているので、(時間的)連続性を持つ前者は称揚され、不連続的体系を表す後者は顧みられない傾向にある。けれども、歴史を日付という目盛りで解釈しようと試みるとき、果たしてそれは連続性を持っていると言い切ることができるのだろうか? 歴史はリニアーな日付(年、月、日)ではなく、日付のクラス(一時間、一日、一年、世紀、千年)で計測されている。これらの各クラスはすべて不連続的な集合である。
 このように、歴史的認識は必ずしも連続性を有してはいないし、また、それは絶対的特権を付されるものでもない。結論を急げば、「野生の思考の特性はその非時間制にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする」のだ。
 なぜ、我われの目にこれらの異文化社会は不透明に映るのだろうか? それは、「自分たちの諸慣習は、われわれの心の中では互いに分離された状態で存在するのに対し、異文化社会の諸慣習は互いに結合された形であらわれるので、われわれにはわかりにくい」からだ。
野生の思考はわれわれの思考と同じ意味において、また同じ方法によって論理的なのである」。最後に、他の箇所でも展開されたレヴィ=ブリュール批判。「野生の思考は〔レヴィ=ブリュールの言うように〕情意性によって働くものではなく、悟性によって働くものであり、混同と融即によってではなく、弁別と対立を使って機能するのである」。




少し気になったので。最後の引用部は、原文を確認すると:

"[...]cette pensée procède par les voies de l’entendement, non de l’affectivité; à l’aide de distinctions et d’ oppositions, non par confusion et participation."
entendement 「理解」、distinctions 「区別」とは違うのだろうか? entendement(=understanding)を「悟性」と訳すのは、いつから始まった慣習なのだろう?







2016年12月22日木曜日

贈与とクリスマス

 
年の瀬も近づき、街もぎらぎらと騒がしい色になってきた。先月、こんな本が出た。クロード・レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』中沢新一訳(角川書店、2016)。

 旧版にクロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳(せりか書房、1995)がある。「火あぶりにされたサンタクロース」は同書に収められている論文のタイトルだ。このたび刊行された新装版では、この論文題目が書名としてそのまま使われている。「火あぶりにされたサンタクロース」自体は日本語で70ページ足らずの短いもので、それに加えて中沢の解題「幸福の贈与」が併録されている。合わせて100ページと少し。新装版と旧版の異同は確認していないが、今回覗いたのは『サンタクロースの秘密』の方だ。

「火あぶりにされたサンタクロース」は1952年に『レ・タン・モデルヌ』誌に掲載された。編集長を務めていたのはサルトルだ。この論文執筆の依頼を通じて、後に実存主義にとって最も厄介な論客となるレヴィ=ストロースと、「カミュ=サルトル論争」の渦中にあり依然として耳目を集めていたサルトルが出会ったというのだから、いささかドラマティックでもある。

 本論文は1951年12月24日に起きた、とある事件から始まる。フランス中部に位置する街ディジョンで、衆人環視の中でサンタクロースが火あぶりにされたというのである。しかも、この火刑は大聖堂前の広場で、聖職者の同意のもとに執行されたのである。レヴィ=ストロースはこの事件を俎上に上げて、サンタクロース論を展開してゆく。
 なぜ、サンタクロースは火あぶりにされたのか? 端的に言えば、サンタクロースは異教のシンボルとみなされたのである。元来キリストの降誕を祝う祭であったクリスマスが、サンタクロースという存在によってその本来的意義を失いつつある。このことに教会は脅威を抱き、かような蛮行に及んだのである。

 ライシテを標榜するフランスでこのような事件が起きたことは、現代的な観点から見てもおもしろい。この処刑の背景には、戦後フランスにおいてアメリカ合衆国の存在が肥大化してきたということがある。マーシャル・プランの恩恵を受けて復興を進めていたフランスへは、米国文化が大量に流入したのだった。サンタクロースのモデルはいうまでもなく、聖ニコラウスである。オランダ語で聖ニコラウスを意味する〈シンタクラース〉が訛って英語ではサンタクロースとなり、全世界に広がった。けれども、我われが今日よく知るクリスマスおよびサンタクロースを米国由来のものだと決めつけてしまうのは早計だろう。これらは長い歴史のなかで、形態を大きく変えながら現在まで生き残っているのであって、その最新モデルが米国式というだけの話なのである。

 レヴィ=ストロースは、サンタクロースとは「社会を、いっぽうに子供、もういっぽうに青年と大人を配した二集団に分割する、差異の原理を表現」するものだと説明する。サンタクロースはそれを信じている子供のもとにしかやってこない。サンタクロースへの信仰を捨てたとき、子供は大人の集団に組み込まれる。これは一種の通過儀礼である。このような例は他にもある。アメリカ合衆国南西部に住むプエブロ・インディアンの社会では、先祖の霊や神を表象するカチーナたちが村々を周期的に訪れ、子供たちに罰や褒美を与える。けれども、カチーナという存在の本質は子供たちをしつけることではない。カチーナ神とはもともと溺死した子どもたちの霊なのである。つまりカチーナそのものが、子供であり、死者を体現しているのだ。この例をレヴィ=ストロースは重要視する。

 話をサンタクロースに戻すと、その起源は中世の〈喜びの司祭〉、〈サチュルヌス司祭〉、〈混乱司祭〉などにもとめられる。これらはいずれも、クリスマスの期間だけ王となることを許された存在である。教会はこうした異教の祝祭を救世主の降誕祭に作り替えてしまったのであった(イエスはもともと夏に生まれたという伝承がある)。ここで、サンタクロースを火あぶりにした協会側の言い分は全く筋が通らなくなってしまう。クリスマスとは本来的に異教的なものだったのである。古代ギリシャ・ローマ時代から中世までの〈12月の祭〉とは一言でいえば、カーニバル的な様相を呈していた。そこでは階層を隔てる梯子は取り払われ、男女はお互いの衣類を交換し、若者は力の限り騒いだ。こうしたカオスを治める役割を担っていた者こそが〈喜びの司祭〉であった。これがサンタクロースの原型である。
 
 けれども、現代のクリスマスに往時ほどの緊張はなく、若者は姿を潜めている。主役となるのは、子供たちだ。その集団は聖ニコラウスの代理人を務め、村中を歩き回り寄進を募る役割を担わされた。この伝統は現代のハロウィーンに受け継がれている。ここで、カチーナの事例を思い浮かべてみよう。カチーナとは子供たちの霊、すなわち死者であった。死者が寄進を求めるということは何を意味するのだろうか? 秋から冬にかけての闇が光を打ち負かす季節に、人びとは死者の来訪を怖れた。そこで、彼らに贈り物を捧げてもてなすことで、おとなしく生者の世界から立ち去ってもらおうと考えたのである。生者の世界において、死者(=他者)を体現できる存在とは、まだ社会集団に組み込まれていない存在、すなわち子供たちであった。

 このように歴史を概観し、解釈を与えたうえで、レヴィ=ストロースは始まりの設問に立ち返る。「なぜサンタクロース像は、かくも発展しえたのか」。現代において、死との関係は古代と比べてライトなものとなった。もはや我われは死者や幽霊を怖れてはいない。それにもかかわらず、その関係性を表象するサンタクロースは消えることなく、むしろ発展してきた。我われが、子供たちの持つサンタクロースの幻想を必死に守ろうとするのは何故だろうか。それはおそらく、「心の奥底では、ささやかなものとはいえ、見返りを求めない気前の良さとか、下心なしの親切などというものが存在することを信じていたい、という欲望」(53)を我われが持ち続けているからだ。「たぶん、私たちはその幻想が他の人々の心の中で守られ、それが若い魂に火を灯し、その炎によって、私たち自身の身体までが温められる、そんな機会を失いたくないのだ」(53、54)。レヴィ=ストロースは言う。「クリスマスの贈与。それは生きていることの穏やかさに捧げられた『サクリファイズ(供犠)』なのだ。生きていることは、まずなによりも、死んではいないことによって、ひとまずの穏やかさを実現しているからだ」(54)

 

 論文自体が平易な筆致で書かれていることもあって読みやすいのだが、供録の「幸福の贈与」を読むとさらに理解が深まるのではないかと思う。とりわけ冒頭部での「サルトルの思想には、不幸についての分析は、いっぱいある。しかし、実存主義は幸福については語らない。ところが、レヴィ=ストロースはこの論文で、幸福の秘密に触れようとしたのである」(71)という紹介などは白眉ではないだろうか。
 前半部ではマルセル・モース『贈与論』を軸に作品の解題がなされている。マーシャル・プランが実行に移されていたフランスはまさに米国から〈贈与〉を受けていたのであり、ここからバタイユ『呪われた部分』やレヴィ=ストロース『親族の基本構造』などが生まれてくる。
 後半部で中沢は「火あぶり……」の内容を確認しつつ、そこに〈贈与の霊〉という概念を持ち込んでいる。クリスマスをはさむ〈冬の祭〉の間には、死者たちが生者の世界へと流れ込み、世界のバランスが崩れてしまう。その均衡を取り戻すべく、我われが死者の領域に送るものこそが〈贈与の霊〉であり、祭壇に供えられる品物や贈り物は、それを物質化したものである。その媒介を務めるのが、若者であり子供たちなのだと中沢は主張する。しかし、こうした循環のシステムはブルジョワ社会の成立とともに変容する。物質主義的な近代において、死者たちの世界は無化されてしまう。また、啓蒙された社会では古くさい因習は廃止され、子供たちが夜道を歩くことも危険だと非難を浴びるようになる。けれども、理論のうえで死者たちの世界が消滅しても、大人は子供たちがその〈外〉の世界と繋がっていることを無意識で感じている。贈与は行われなければならない。ここで贈与を受け取るのはもちろん死者=子供たちである。その結果として、誕生したのがサンタクロースだ。この老人は、生者と死者の世界を繋ぐ媒介者の役割を肩代わりしたのだった。
 贈与には宇宙的な力の流動が寄り添っている。北アメリカのインディアンや、メラニシアの原住民たちの風俗には〈贈与の祭〉がある。そこで人びとは、客人を盛大にもてなし、物品を気前よく浪費する。モースはこれに着目して『贈与論』を執筆した。「商業は人と人の間に、分離をつくりだす。これにたいして、贈与は人と人を結合することができる。商業(これは等価交換を、第一原理としている)がロゴスならば、贈与とはエロスなのだ」(105)。個と個は〈贈与の霊〉を通じて、結びつくのだ。クリスマスもこうした贈与の祝祭である。ここで参照されるのが(ここまで読んできた誰もが思い浮かべていたであろう)ディケンズの『クリスマス・キャロル』である。スクルージは贈与のシステムを誰より嫌っている。けれども、彼はクリスマスに死者の霊との交信を通じて、人びとが無欲に贈与し合う様を目の当たりにする。果たして、彼のなかでは〈贈与の霊〉が動きだすのだった。




2016年12月10日土曜日

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて——チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて——チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』飯島みどり訳(岩波書店、2016

原書は Rumbo al Sur, deseando el Norte: un romance bilingüe, Barcelona, Editorial Planeta, 1998

 アルゼンチンに生まれ、後にアメリカ合衆国、チリと移り住み、1973年以降は亡命を余儀なくされた作家アリエル・ドルフマン(1942-)の自叙伝。本書は第一部「北と南」(1-8章)、第二部「南と北」(9-終章)で構成されている。著者の幼少期におけることばとの邂逅を綴った1、2章を除いて、奇数章では1973年のチリ軍事クー・デタ以降の出来事が述べられており、偶数章は1945年から1973年までを時系列順に追うものである。巻末には日本語版への付録として、2006年にピノチェトが死去した際に執筆された記事が2点掲載されている。大筋は同じ内容の記事だが、一方は英語、他方はスペイン語で発表されたものであり、異同を瞥見することができる。本書ははじめ英語で書かれ、のちにドルフマン自身がそれをスペイン語へと翻訳した。翻訳と言っても、もちろん逐語訳ではなく大部に削除・加筆・変更が認められる。

 アリエル・ドルフマンは1942年、ブエノス・アイレスに生まれた。彼の母ファニイは帝政ロシアの現モルドヴァに生まれたユダヤ人で、迫害を逃れてアルゼンチンへとやって来た移民であった。一方、父アドルフォは現ウクライナの裕福なユダヤ一族の出であったが、事業が失敗したことが原因でアルゼンチンへ、のちにロシアへと居を移す。ところがそこでロシア革命に遭い、再びアルゼンチンへと戻る、という波瀾万丈な人生を送った人物でもあった。ちなみに、『アンナ・カレーニナ』を初めてスペイン語へと翻訳したのがこの父親の母、つまりアリエルからみた父方の祖母であったのだという。(1、2章)
 1945年、共産主義者であった父が軍事政権の圧迫を受け、一家はニュー・ヨークへと移り住む。その直後、アリエルは肺炎を患い緊急入院する。その時からアリエルは北米人となることを決意し、以降10年間、スペイン語を話すことをやめる。(4章)
 冷戦が始まると、合衆国ではアカ狩りが熱を増し、1954年、一家はチリへの移住を余儀なくされる。アリエルは英国系の学校に編入し、ここで再びスペイン語(カステジャノ)を覚え直すこととなるが、チリに身を置いても、執筆活動は英語でのみ行っていた。ちなみに、合衆国時代から、著者は(共産主義者であった父がレーニンにちなんでつけた名である)ウラディミロという本名を厭い、勝手にこしらえたエドワードという名前を使うようになっていた。のちに、シェイクスピアの『テンペスト』(あるいはホセ・エンリケ・ロドーの『アリエル』)にシンパシーを感じ、もうひとつの本名アリエルを名乗ることになる。(6、8章)
 チリで貧困を目の当たりにしたアリエルは大学入学後、学生運動に盛んに参加し、サルバドール・アジェンデの選挙活動を手伝うようになる。1964年の大統領選で、アジェンデは敗北を喫するが、アリエルはそこで生涯の伴侶アンヘリカとも出会う。(10章)
 ラテンアメリカにおけるCIAの横暴、ベトナム戦争の開始などをうけて、次第にアリエルの心は北米を離れてゆく。1960年代のラテンアメリカ文学の〈ブーム〉を機に、アリエルは「翻訳者不要の英語でラテンアメリカの経験を書き記す」(316)可能性に思い当たる。そんな折、アリエルにカリフォルニア大学バークレー校への留学の話が浮上する。激動の1968年のことであった。(12章)
 アリエルは妻アンヘリカと息子ロドリゴを連れて、10数年ぶりにアメリカ合衆国の土を踏む。かつて親しんだホットドッグに舌鼓を打ちながらも、アリエルはヒッピーやニューレフトとも接触し、そこで米国における左翼運動の限界を見る。留学の期間を終え、1970年、チリに戻る。(14章)
 1970年、果たしてサルバドール・アジェンデが大統領に就任する。翌年、アリエルはアルマン・マトラールとともに『ドナルド・ダックを読む』を発表。「地球全体を覆う北米文化産業とどう対峙すべきか」を問うたこの主著、別名「脱植民地化の手引書」は、1973年以降、バルパライソ湾に投げ込まれたり、焚書の刑に処せられたりと、憂き目に遭うこととなる。アリエルはアジェンデ政権文化補佐官の職を得る。(16章)

 奇数章。1973年9月11日の事件当日、アリエルは本来モネダ宮殿で夜勤をしているはずだった。同日の午前中、あるプロジェクトの打ち合わせを抱えていたアリエルは同僚クラウディオ・ヒメノに当直の交代を頼んでいたのであった。クラウディオは亡くなり、アリエルは生き延びる。さらに彼の上司フェルナンド・フロレスは「歴史を語り伝えるために、生き残らなければならない者というのもいる」(6061)と考え、緊急時連絡電話一覧表からアリエル・ドルフマンの名を消す。アリエルはアルゼンチン大使館に逃げ込む。クー・デタを逃れて避難して来た大量の人びとに埋もれ、足止めを食らっていたアリエルであったが、ひょんなことから大使夫人と話すようになり、出国に成功する。夫人は米国人で、皮肉なことに、ここでも彼は英語に救われたのである。以後、アリエルは生地ブエノス・アイレスを経て、パリ、オランダ、メキシコと亡命を続ける。



 事実は小説より奇なりとはこのことか、と言いたくなるほどに波乱万丈な人生を綴ったアリエル・ドルフマンの自叙伝である。読んでいても、話ができすぎではないかと思うようなエピソードが盛りだくさんなのだが、ドルフマン自身もそれをひしひしと感じており、いたるところに運命の符牒を見出そうとする姿はさながらドン・キホーテのようでもある。
 亡命する作家の多いラテンアメリカにおいても、彼ほどの故郷喪失[デスティエロ]を経験した人物はなかなかいないだろう。そもそも彼の出自からして大変複雑なものであって、祖父母の代から俯瞰するとドルフマン家は、ロシア語、イディッシュ語、フランス語、英語、スペイン語、ドイツ語などが飛び交うカオスな言語環境にあった。無論、アリエル・ドルフマン自身もそうした諸言語の葛藤を逃れることはできなかった。とりわけ、彼の幼少期の出来事が語られる偶数章は、言語間(主にスペイン語と英語)を揺れ動く著者自身の煩悶が表れているようで、読み進めるのも一苦労である。翻訳では、lengua が「舌(ことば)」、idioma が「言語」、lenguaje が「ことば(レングアへ)」、palabra が「言葉、単語」と訳し分けられている。ドルフマン特有の繊細な言語感覚による指摘がなかなか面白い。例えば:

「いつの日か僕は気づくことになる、esperanza[ルビ:エスペランサ]希望の語はそもそも待つ[エスペラル]ことを旨とし、また辛抱強さを源に込めてもいる」(185

他にも、スペイン語の無人称構文を巡って、「スペイン語[カステジャノ]はスペイン語信者たちが己れの過ちを他人のせいにするお先棒を担いできたのであり、受け身構文がやたらと人気を博し、また hay que, habría que, sería necesario que ……主語に関わりなく~しなければならない、~しなければならないはず、~することが必要、といった言い回しを濫発する」(187)などと私見を述べたり、compañero という語には pan を分かち合うという意味が内包されており、これに相当する語は英語には存在しない、と言い切ったりするところなどは、思わず膝を打ちたくなる。


 これは余談だが、先日、神保町をぶらぶらしていたとき、ある古書店で件の『ドナルド・ダックを読む』を見つけた。ただし、アメコミの棚で。ここにも、何らかの符牒が見出されるべきなのだろうか……

2016年11月27日日曜日

ラテンビート映画祭 / LBFF(後編)



④クリストファー・マーレイ『盲目のキリスト』El Cristo Ciego(チリ、フランス、2016)

 クリストファー・マーレイはサンティアゴ出身、新進気鋭の若手監督だ。この映画以前にも、いくつかの作品を撮影しているが、単独での監督作品は本作が初。主演のミカエル・シルバを除いて、映画に登場する全てのキャスティングには、実際にストリートに暮らす人びとを起用したのだという。当日のティーチインでは、最も影響を受けたシネアストとして、パゾリーニとロベール・ブレッソンの名を挙げていた。
 マイケル(ミカエル・シルバ)は、チリの寒村、ラ・ティラナで技師として働いている。彼は自身をキリストと信じ込み、親友マウリシオにその掌を釘で打たせた過去を持っている。ひょんなことからその親友が怪我をして動けなくなっていることを知ったマイケルは、遠く僻地に暮らす彼に会うべく出立する。自分には奇跡を起こす力があると信じて疑わない彼は、その掌でマウリシオを治し、救おうと考えたのである。長い旅の道中で、貧しく暮らす路上の人びとと出会い、彼らを助け、時には彼らに助けられながら、マイケルはついに親友の許へと辿り着く。果たして、そこで奇跡は起きたのか……?
 チリの映画を観ていると、身体が欠損した人びとがたびたび登場するのに気がつく。その最たる例が、アレハンドロ・ホドロフスキーの作品群だろう。まあ、彼の場合はメキシコを舞台にした『サンタ・サングレ』においても両腕を欠いた女性を中心に据えているので、これは個人的なオブセッションと言えるかもしれない。けれども、『リアリティのダンス』の冒頭における不具の人びとの集団は印象的だろうし、ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)の両腕が硬直する事件などはプロットにおいても重要な役割を担っている。自分のものであったはずのものがない、あるいは動かない。身体の喪失。アレハンドロ・ホドロフスキーはそういった欠如を描くことで、そこにあるはずのものを鮮やかに浮かび上がらせるのである。
 さて、『盲目のキリスト』のマウリシオも脚の自由が利かない存在である。この障害の理由としては大きく分けてふたつの可能性が予想できるだろう。ひとつめは、危険な炭坑での作業に従事した労働者が何らかの事故に見舞われ、障害を負ったという仮説。ふたつめは、1973年のクー・デタ以降の拷問による後遺症。マウリシオの場合は前者であることが作中で明示されている。僻地に独り残され、何処へも行けないマウリシオはただ日々をじっとやり過ごしている。ここに描出されるのは、『ゴドーを待ちながら』の世界のようでもある。ゴドー Godot という名前が英語の God + フランス語の縮小辞 -ot であることから、ゴドーを神の比喩とする推測は広く知られるところであるが、『盲目のキリスト』において焦点が当てられるのは、待つ側の人間(すなわちエストラゴンとヴラジーミル)ではなく、迎えに行く側のマイケル(≒キリスト)である。すなわち、「ゴドーを待つ」のではなく、ここでは「ゴドーが行く」のだ。この点において、『盲目のキリスト』はベケットのそれとは一線を画す、能動的な世界であることがわかる。
 アリエル・ドルフマンは自叙伝『南に向かい、北を求めて――チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』(飯島みどり訳、岩波書店、2016)で「esperanza[ルビ:エスペランサ] 希望の語はそもそも待つ[エスペラル]ことを旨とし」ていると書いているが、この映画において、希望を抱いているのは待つマウリシオではなく(何故なら彼は自分の脚が治るとは微塵も思っていないし、親友が向かっていることすら知らされていないのだから)、むしろマイケルの方である。マイケルは奇跡など起るはずがない、と周りの人間に嘲笑されながらも、希望を持って親友の許へと急ぐのである。しかるに、本作で描かれているのは、〈希望〉という概念における構図の大転換――受動的な〈希望〉から能動的な〈希望〉へ――である……などと邪推できるのかもしれない。果たして奇跡は起きたのか、という問題は別として。

⑤ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン『名誉市民』El ciudadano ilustre(アルゼンチン、スペイン、2016)
『ル・コルビュジエの家』El hombre al lado(アルゼンチン、2009)でタッグを組んだふたりの新作である。脚本はアカデミー賞外国語映画賞にも出品された。トレイラーがこちら。東京国際映画祭でも上映されていた。
アルゼンチン出身の作家ダニエル・マントバーニ(オスカル・マルティネス)がノーベル文学賞を受賞するシーンからこの映画は始まる。反権威主義的な思想の彼は授賞式で、「この賞を受賞したことで自分は作家として没落のフェイズに突入した」などと講演して、場を凍りつかせる。ノーベル賞作家となったことで、彼のもとには世界各地から講演の依頼が舞い込む。そのなかのひとつに、彼の故郷サラスからの手紙があった。いわく、名誉市民賞を彼に授与したいとのことだ。長年ヨーロッパに暮らし、数十年も帰省していなかった彼は郷愁にかられ、サラスへと出向くことにする。
 しかし、愛すべき故郷でダニエルを待ち受けていたのは、文字通り偏狭な田舎の人びとであった。ダニエルの小説に登場する人物を自分の父親だと信じて疑わない青年、サラスで幅を利かせている芸術アカデミーの会員、障がい者である息子のための寄付をねだりにやって来る父親……彼は自分の裡に美化されたサラスとその実情とのギャップに戸惑う。とりわけ、彼を困惑させたのはかつての恋人が自分の親友と結婚していたという事実である。ダニエルとサラス市民との軋轢はしだいに反響・増幅してゆき、破滅的な終局を招くこととなる。
 これはもう、文句無しに面白かった。そもそもアルゼンチンからノーベル文学賞作家が出た、という設定自体が壮大な自虐でもあり、笑いを誘う。けれども、作中のダニエルはいかにも「ノーベル賞作家らしく」描かれており、その演出が実に巧みだ。彼の自宅の書斎や、噺を物語るトーン、サラスの市民に対する姿勢などのディティールが、ちくいち「ノーベル賞作家」らしい雰囲気を醸し出しているのだ。
〈気まずい人間関係〉を描くことに関して、このふたりの監督の腕は比類がない。都市に暮らす人びとの隣人トラブルに焦点がおかれた『ル・コルビュジエの家』と対比されるように、『名誉市民』では因習、あるいは既得権益に凝り固まった地方の人びとが姿が映し出される。そこへ投げ込まれたダニエルはいかにも見せ物のように扱われ、同時に地方の社会秩序を乱す危険因子でもある。おりしも、日本での公開と前後してボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、それに対してバルガス=リョサがこんな発言をしていたこと※もあって、文学賞のありかたそのものにも一石を投じるようなフィルムとなっている。

※件のバルガス=リョサの発言は「来年は(ノーベル文学賞を)サッカー選手にでもやるのか?」という部分だけが恣意的に抜き出されると誤解を招きかねないので、いちおう補足しておく。「ボブ・ディランは自分の好きな歌手のひとりである」と述べたうえで、バルガス=リョサは「現代社会では、政治も文化も、見せ物(スペクタクル)に成り代わってしまっている」と警鐘を鳴らし、ディランの受賞に対して懸念を抱いているのである。

⑥パディ・ブレスナック『VIVA』(キューバ、アイルランド、2015)
 ハバナに住む美容師の青年ヘスス(エクトル・メディナ)は、ドラッグ・クイーンのオーディションに合格し、舞台に立つこととなる。そんな彼のもとに、幼時に生き別れた父親アンヘル(ホルヘ・ペルゴリア)がやって来る。元ボクサーの父は、殺人の罪で投獄されていたのだった。アンヘルがヘススの家に転がり込むかたちで、父と子はぎこちない共同生活を始める。暴力的な父親アンヘルは息子ヘススに娼婦まがいの仕事を辞めさせるが、自分は働きもせず酒浸りの日々を過ごしている。父への反発と思慕の狭間で揺れ動くヘススは、ある日、アンヘルの口から彼が出所した本当の理由を聞かされる……。
 この作品でまず注意を引くのは、親子に与えられたいかにも意味有りげな名前だろう。ヘスス(Jesús)にしてもアンヘル(Ángel)にしても、スペイン語圏では一般的な名前ではあるが、この映画における父と子の名前にキリスト教的なコノテーションが含まれていることは明らかだ。作中では、ベッドに横たわるアンヘルを足下から捉えたショットが確認できるが、これはマンテーニャの『死せるキリスト』をあからさまに彷彿させる。
 一方で、『VIVA』はクイア問題を正面から取り扱ったフィルムでもある。1961年の〈3Pの夜〉以降、キューバでは〈男色〉Pederastas、〈売春婦〉Prostitutas、〈ポン引き〉Proxenetas が厳しく取り締まられるようになり、摘発された者は、名ばかりの更生施設に収容され、強制労働に従事させられた。そうした暗い状況のキューバから生まれてクイア映画の金字塔となったのが、『苺とチョコレート』Fresa y chocolate(キューバ、スペイン、メキシコ、1994)であった。そして、なんと、『苺とチョコレート』にホモセクシャルの男性ディエゴ役として出演したホルヘ・ペルゴリアが、本作『VIVA』ではマチスモの権化ともいうべきボクサー上がりの父親アンヘルを演じているのである。これは配役の妙と言うほかない。
 確かにこの映画では、ホモセクシャルの息子ヘススと、強権的な父親アンヘルの対比が鮮やかに描き出されている。が、特筆すべき点は他にある。この映画が文字通りスポットが当てているのは、ヘススの〈声〉なのだ。ヘススはけばけばしい衣装に身を包み、ドラッグ・クイーンとしてステージに上がる。そこで、彼は楽曲に合わせて口パクのパフォーマンスをするのである。つまり、舞台上でのヘススには自身の〈声〉がない。ここで暗示されてるのは、キューバ革命が生み出した「サバルタンは語ることができるか」という問題である。この場面だけを抜き出せば、ヘススは語るべき〈声〉を持たない存在として映し出されている。
 しかし一方で、ヘススがキャバレーに戻れるよう、父親との離縁を勧める雇用主の提案に対して、彼ははっきりと断りの姿勢を見せ、父親と暮らすことを宣言してもいる。親子の関係において、彼はこの上なく明朗に、自分の意志を語るのである。
『VIVA』はキューバのクイア問題をめぐる最新版レポートであるといってよいだろう。果たして、ヘススは自らの〈声〉で語ることができるようになったのだろうか?

2016年10月25日火曜日

GCIのTTT


 ギジェルモ・カブレラ=インファンテの『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』だ。TPPでもPPAPでもなく。基本的にはメモ書き。

 ギジェルモ・カブレラ=インファンテ Guillermo Cabrera Infante(1929-2005)はキューバ東部ヒバラ生まれの小説家・翻訳家・シネアスト。キューバ革命後の1959年から1961年には機関誌『革命』Revolución の編集として働き、また同誌の週間文芸版『革命の月曜日』Lunes de Revolución を担当した。この期間にも創作活動を続け、1960年、処女短編集『平和のときも戦いのときも』Así en la paz como en la guerra を発表。1962年から1964年にかけて、ベルギーのキューバ大使館に勤める。革命政権と当初は緊密な関係を保っていたものの、しだいにフィデル・カストロの政治方針に幻滅を感じ始める。1965年、母の埋葬のためキューバに帰国し、そこで四ヶ月過ごす。このとき、革命政権との決別を決意。同年、家族とともにマドリードへ移住するも、新聞記者時代の反フランコ的言動が原因でスペイン国内での居住を禁じられる。以降はイギリスで暮らす。1979年、長編小説『亡き王子のためのハバナ』La Habana para un Infante difunto を発表。1997年、セルバンテス賞受賞。

『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』Tres tristes tigres は、1967年の初めに出版された。この作品の原型は、カブレラ=インファンテが1961年に着想を得て、ブリュッセルのキューバ大使館に勤めていた1962年から1964年にかけて(当初は『熱帯の夜明けの景観』Vista del amanecer en el trópico というタイトルで)書いたものである。同年にブレーベ叢書賞を受賞したものの、フランコ政権下の検閲により、三度にわたって出版を拒否される。その後、作品に大幅な手直しを加え(「ジグソーパズル」“Rompecabeza” と「バッハ騒ぎ」“Bachata” はこのとき追加されたもの)、タイトルを変更。1966年、出版の許可が降りるも、22(23)箇所もの削除を余儀なくされた。『TTT』としては1967年、バルセロナのセイクス・バラル社から出版されたものの、作者本人による校閲はなされなかった。そのため、この版には現在流通しているものと比較したときに少なくとも270もの異同があったという。1990年になって初めて、検閲によって削除された箇所を復元した版がベネズエラの出版社から発表された。
 原題はスペイン語の早口言葉〈Tres tristes tigres en un trigal…〉にちなんで付けられたもの。後半部にはヴァリアントがある。また、作者はハバナ市街地の地図を『TTT』の付録とし、出版することを望んでいたという。にもかかわらず、マップ付きの版は長らく出版されず、今回参照した Cabrera Infante, Guillermo, Tres tristes tigres, Madrid, Cátedra, 2010. が初めての地図付きヴァージョンなのだとか。
 あらすじ……を追うのがこれまた難しい。舞台は1958年、革命直前のハバナ。主なプロットは:
  • カメラマン〈コダック〉と歌手〈ラ・エストレージャ〉の話(「彼女の歌ったボレロ」)
  • パーカッション奏者〈エリボー〉とビビアンの恋愛(「セッセエリボー」)
  • アルセニオ・クエとシルベストレのドライブ(「バッハ騒ぎ」)

上記に加えて、〈女性歌手キューバ・ベネガスがスターダムにのし上がるまで〉、〈精神科医の診察を受けるラウラ・ディアス〉、〈キャンベル夫妻のハバナ訪問(というフィクション)〉、〈クエの見た不穏な夢〉、〈ブストロフェドンの死〉などのエピソードが挿入されている。〈トロツキーの死〉は、七名のキューバ人作家(ホセ・マルティ、ホセ・レサマ=リマ、ビルヒリオ・ピニェーラ、リディア・カブレラ、リノ・ノバス、アレホ・カルペンティエル、ニコラス・ギジェン)の筆致を真似て書かれた架空の文章である。これに近いことをソローキンが『青い脂』でやっている。

この作品においては主人公と呼ぶべき登場人物が存在しない。また、物語を貫くひとつの筋らしきものもない。Brushwoodは「トロツキーの死」(『熱帯』では書かれなかった部分)などは物語の筋に何ら影響を与えないため、「読み捨て可能」な文章であると指摘し、コルタサル『石蹴り遊び』との比較を試みている。けれども、「コルタサルと異なるのが、カブレラ=インファンテは読み方の指定をしていないという点である。その意味で彼の作品は『石蹴り遊び』よりも読者に対して開かれており、読者は全てを自分自身で行わなければならない」とも述べており、これはなかなか面白い指摘ではないかと思う。

能動的読者、という視座から『TTT』を考えるとき、

革命直前のハバナにおける多言語環境
書き言葉/話し言葉

というふたつの点を指摘できるのではないだろうか。冒頭の部分を覗いてみよう。


少なくとも、スペイン語、英語、フランス語(らしきもの)でこのテクストが書かれていることが分かる。さらに別のページではポルトガル語の記述も確認できる。これが①。革命前夜のキューバがいかに多言語的環境にあったか。そして、鉛筆で記したあたりの、Merscí bocú Comoustedesvieron... などでは口語的に文章が転写されている。これが②である。ここから、読者に多言語間の切り替え(スペイン語、英語、フランス語…)を強いるのみならず、口語/文語間のスイッチをも迫る、実に能動的な読みを要求するテクストであるかが分かるのではないだろうか。



 カブレラ=インファンテは翻訳家としても活躍していた。『TTT』が外国語へと翻訳される際には、大幅に変更が加えられて、英語、フランス語、イタリア語への翻訳にはカブレラ=インファンテ自身も参加している。また、自らの作品の自己翻訳も行った(『煙に巻かれて』など)。1972年には、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』をスペイン語に翻訳している。



 さらに、リライトの問題について。フランコ政権下の校閲による削除は22箇所であったと考えられていたが、実際には23箇所であったことが後に発覚した。これは作者自らが、当該箇所の復元を却下したことによる。つまり、結果的には検閲が作品の校閲を手助けしたというのだから、皮肉だ。

削除箇所の例としては:「彼がモノを出すのを見ると、[…]男はこうやって足を組みかえながらモノをしまうの」(19)、「軍人」(238)、「神殺し」(268)などがある。卑猥な表現、宗教、軍部にまつわる表現が削除された。また、1970年の手紙では、ラ・エストレージャの死体の行方に関する「メタ・ファイナル」“Meta-final” という章の存在を作者自ら明かしている。



 シネアストとしてのGCI。1963年、G. Caínのペンネームで映画評論集『二十世紀の仕事』Un oficio del siglo XX を出版している。ここにはアルフレッド・ヒッチコックなどの作品を扱った評論の他、作者のアルター・エゴとも呼べる人物の架空の伝記などが収められている。『ワンダーウォール』(1968)、『バニシング・ポイント』(1971)、『火山のもとで』(1984)[この脚本による映画化は実現せず]、『ロスト・シティ』(2005)などの脚本も手がけている。



 また、GCIを亡命作家として論じることも可能だろう。Brushwoodによれば、この作品の中心的主題となっているものは〈懐疑的ノスタルジー〉である。確かに1965年にキューバを去って以来、二度と祖国の土を踏むことのなかったカブレラ=インファンテの作品には革命以前のユートピア的なハバナが描かれているとも言える。晩年は『煙に巻かれて』(1985)など、英語での創作も行ったことからナボコフとの比較も面白いかもしれない。なお、亡命後はキューバ国内で自作が出版されることをGCI自身が許可しなかった。

 下線を引いた部分は〈都市小説〉という文脈で論じられそうなところ。『TTT』の風景描写には不思議なところがある。例えば、「バッハ騒ぎ」では「サン・ラザロ通りを走り始めた」(368)など、具体的な地名は出てくるが、風景の描かれ方はどこか均質的でもある。「ハバナにいて、建物の間から海が見える」などという描写は「東京にいて、高いビルがたくさん見える」のと同じくらい土地感のない表現で、ほとんど何も言っていないのに等しい。こうした描写はむしろ、クエとシルベストレの言葉遊びを成立させるためだけに存在している舞台装置のようでもある。こう考えると、「しばらく僕たちは、クエのお気に入りテーマである都会について話していたが、人が街を作るのではなく、街が人を作るのだと言い張る彼は[…]」(358)のような記述はどこか意味有りげだ。



 いろいろとまとまりのない文章を書いてしまったが、まあ、普通に読んでも楽しい作品である。具体的には:


先生、「セイシンカ」ってどう書くんですか、「精神科」ですか、「清心科」ですか?(197)
それに俺は、プルースト(「プルッ」としか聞こえない)もジェイムス・ジョイス(彼の発音ではどう聞いてもシェイム・チョイスだ)もカフカも(この名前だけはきちんと発音している)も別に評価していない。この三位一体を崇めることなしに二十世紀の小説は書けないのだろう? 二十一世紀に俺が何か書ければ話は別だが。(391)

ヒトラーを憎んだところで意味はない。彼が殺した人の大半はどのみち今頃死んでいるのだから。それより、国連に乗り込んででも告訴すべき大虐殺の犯人は「時間」だろう。(391, 392)



この、あらゆるものを馬鹿にしくさる感じが実に面白いと思うのだが、どうだろう?



文献一覧:
カブレラ=インファンテ、ギジェルモ『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』寺尾隆吉訳、現代企画室、2014
Cabrera Infante, Guillermo, Tres tristes tigres, Madrid, Cátedra, 2010.

Brushwood, John Stubbs, La novela hispanoamericana del siglo XX: una vista panorámica, trad. de Raymond L. Williams, México, Fondo de cultura económica, 1984.