2016年10月25日火曜日

GCIのTTT


 ギジェルモ・カブレラ=インファンテの『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』だ。TPPでもPPAPでもなく。基本的にはメモ書き。

 ギジェルモ・カブレラ=インファンテ Guillermo Cabrera Infante(1929-2005)はキューバ東部ヒバラ生まれの小説家・翻訳家・シネアスト。キューバ革命後の1959年から1961年には機関誌『革命』Revolución の編集として働き、また同誌の週間文芸版『革命の月曜日』Lunes de Revolución を担当した。この期間にも創作活動を続け、1960年、処女短編集『平和のときも戦いのときも』Así en la paz como en la guerra を発表。1962年から1964年にかけて、ベルギーのキューバ大使館に勤める。革命政権と当初は緊密な関係を保っていたものの、しだいにフィデル・カストロの政治方針に幻滅を感じ始める。1965年、母の埋葬のためキューバに帰国し、そこで四ヶ月過ごす。このとき、革命政権との決別を決意。同年、家族とともにマドリードへ移住するも、新聞記者時代の反フランコ的言動が原因でスペイン国内での居住を禁じられる。以降はイギリスで暮らす。1979年、長編小説『亡き王子のためのハバナ』La Habana para un Infante difunto を発表。1997年、セルバンテス賞受賞。

『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』Tres tristes tigres は、1967年の初めに出版された。この作品の原型は、カブレラ=インファンテが1961年に着想を得て、ブリュッセルのキューバ大使館に勤めていた1962年から1964年にかけて(当初は『熱帯の夜明けの景観』Vista del amanecer en el trópico というタイトルで)書いたものである。同年にブレーベ叢書賞を受賞したものの、フランコ政権下の検閲により、三度にわたって出版を拒否される。その後、作品に大幅な手直しを加え(「ジグソーパズル」“Rompecabeza” と「バッハ騒ぎ」“Bachata” はこのとき追加されたもの)、タイトルを変更。1966年、出版の許可が降りるも、22(23)箇所もの削除を余儀なくされた。『TTT』としては1967年、バルセロナのセイクス・バラル社から出版されたものの、作者本人による校閲はなされなかった。そのため、この版には現在流通しているものと比較したときに少なくとも270もの異同があったという。1990年になって初めて、検閲によって削除された箇所を復元した版がベネズエラの出版社から発表された。
 原題はスペイン語の早口言葉〈Tres tristes tigres en un trigal…〉にちなんで付けられたもの。後半部にはヴァリアントがある。また、作者はハバナ市街地の地図を『TTT』の付録とし、出版することを望んでいたという。にもかかわらず、マップ付きの版は長らく出版されず、今回参照した Cabrera Infante, Guillermo, Tres tristes tigres, Madrid, Cátedra, 2010. が初めての地図付きヴァージョンなのだとか。
 あらすじ……を追うのがこれまた難しい。舞台は1958年、革命直前のハバナ。主なプロットは:
  • カメラマン〈コダック〉と歌手〈ラ・エストレージャ〉の話(「彼女の歌ったボレロ」)
  • パーカッション奏者〈エリボー〉とビビアンの恋愛(「セッセエリボー」)
  • アルセニオ・クエとシルベストレのドライブ(「バッハ騒ぎ」)

上記に加えて、〈女性歌手キューバ・ベネガスがスターダムにのし上がるまで〉、〈精神科医の診察を受けるラウラ・ディアス〉、〈キャンベル夫妻のハバナ訪問(というフィクション)〉、〈クエの見た不穏な夢〉、〈ブストロフェドンの死〉などのエピソードが挿入されている。〈トロツキーの死〉は、七名のキューバ人作家(ホセ・マルティ、ホセ・レサマ=リマ、ビルヒリオ・ピニェーラ、リディア・カブレラ、リノ・ノバス、アレホ・カルペンティエル、ニコラス・ギジェン)の筆致を真似て書かれた架空の文章である。これに近いことをソローキンが『青い脂』でやっている。

この作品においては主人公と呼ぶべき登場人物が存在しない。また、物語を貫くひとつの筋らしきものもない。Brushwoodは「トロツキーの死」(『熱帯』では書かれなかった部分)などは物語の筋に何ら影響を与えないため、「読み捨て可能」な文章であると指摘し、コルタサル『石蹴り遊び』との比較を試みている。けれども、「コルタサルと異なるのが、カブレラ=インファンテは読み方の指定をしていないという点である。その意味で彼の作品は『石蹴り遊び』よりも読者に対して開かれており、読者は全てを自分自身で行わなければならない」とも述べており、これはなかなか面白い指摘ではないかと思う。

能動的読者、という視座から『TTT』を考えるとき、

革命直前のハバナにおける多言語環境
書き言葉/話し言葉

というふたつの点を指摘できるのではないだろうか。冒頭の部分を覗いてみよう。


少なくとも、スペイン語、英語、フランス語(らしきもの)でこのテクストが書かれていることが分かる。さらに別のページではポルトガル語の記述も確認できる。これが①。革命前夜のキューバがいかに多言語的環境にあったか。そして、鉛筆で記したあたりの、Merscí bocú Comoustedesvieron... などでは口語的に文章が転写されている。これが②である。ここから、読者に多言語間の切り替え(スペイン語、英語、フランス語…)を強いるのみならず、口語/文語間のスイッチをも迫る、実に能動的な読みを要求するテクストであるかが分かるのではないだろうか。



 カブレラ=インファンテは翻訳家としても活躍していた。『TTT』が外国語へと翻訳される際には、大幅に変更が加えられて、英語、フランス語、イタリア語への翻訳にはカブレラ=インファンテ自身も参加している。また、自らの作品の自己翻訳も行った(『煙に巻かれて』など)。1972年には、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』をスペイン語に翻訳している。



 さらに、リライトの問題について。フランコ政権下の校閲による削除は22箇所であったと考えられていたが、実際には23箇所であったことが後に発覚した。これは作者自らが、当該箇所の復元を却下したことによる。つまり、結果的には検閲が作品の校閲を手助けしたというのだから、皮肉だ。

削除箇所の例としては:「彼がモノを出すのを見ると、[…]男はこうやって足を組みかえながらモノをしまうの」(19)、「軍人」(238)、「神殺し」(268)などがある。卑猥な表現、宗教、軍部にまつわる表現が削除された。また、1970年の手紙では、ラ・エストレージャの死体の行方に関する「メタ・ファイナル」“Meta-final” という章の存在を作者自ら明かしている。



 シネアストとしてのGCI。1963年、G. Caínのペンネームで映画評論集『二十世紀の仕事』Un oficio del siglo XX を出版している。ここにはアルフレッド・ヒッチコックなどの作品を扱った評論の他、作者のアルター・エゴとも呼べる人物の架空の伝記などが収められている。『ワンダーウォール』(1968)、『バニシング・ポイント』(1971)、『火山のもとで』(1984)[この脚本による映画化は実現せず]、『ロスト・シティ』(2005)などの脚本も手がけている。



 また、GCIを亡命作家として論じることも可能だろう。Brushwoodによれば、この作品の中心的主題となっているものは〈懐疑的ノスタルジー〉である。確かに1965年にキューバを去って以来、二度と祖国の土を踏むことのなかったカブレラ=インファンテの作品には革命以前のユートピア的なハバナが描かれているとも言える。晩年は『煙に巻かれて』(1985)など、英語での創作も行ったことからナボコフとの比較も面白いかもしれない。なお、亡命後はキューバ国内で自作が出版されることをGCI自身が許可しなかった。

 下線を引いた部分は〈都市小説〉という文脈で論じられそうなところ。『TTT』の風景描写には不思議なところがある。例えば、「バッハ騒ぎ」では「サン・ラザロ通りを走り始めた」(368)など、具体的な地名は出てくるが、風景の描かれ方はどこか均質的でもある。「ハバナにいて、建物の間から海が見える」などという描写は「東京にいて、高いビルがたくさん見える」のと同じくらい土地感のない表現で、ほとんど何も言っていないのに等しい。こうした描写はむしろ、クエとシルベストレの言葉遊びを成立させるためだけに存在している舞台装置のようでもある。こう考えると、「しばらく僕たちは、クエのお気に入りテーマである都会について話していたが、人が街を作るのではなく、街が人を作るのだと言い張る彼は[…]」(358)のような記述はどこか意味有りげだ。



 いろいろとまとまりのない文章を書いてしまったが、まあ、普通に読んでも楽しい作品である。具体的には:


先生、「セイシンカ」ってどう書くんですか、「精神科」ですか、「清心科」ですか?(197)
それに俺は、プルースト(「プルッ」としか聞こえない)もジェイムス・ジョイス(彼の発音ではどう聞いてもシェイム・チョイスだ)もカフカも(この名前だけはきちんと発音している)も別に評価していない。この三位一体を崇めることなしに二十世紀の小説は書けないのだろう? 二十一世紀に俺が何か書ければ話は別だが。(391)

ヒトラーを憎んだところで意味はない。彼が殺した人の大半はどのみち今頃死んでいるのだから。それより、国連に乗り込んででも告訴すべき大虐殺の犯人は「時間」だろう。(391, 392)



この、あらゆるものを馬鹿にしくさる感じが実に面白いと思うのだが、どうだろう?



文献一覧:
カブレラ=インファンテ、ギジェルモ『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』寺尾隆吉訳、現代企画室、2014
Cabrera Infante, Guillermo, Tres tristes tigres, Madrid, Cátedra, 2010.

Brushwood, John Stubbs, La novela hispanoamericana del siglo XX: una vista panorámica, trad. de Raymond L. Williams, México, Fondo de cultura económica, 1984.

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