カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』寺尾隆吉訳(現代企画室、2012)についてのある発表を聞いた。1958年にフエンテスが発表した初の長編で、ラテンアメリカ文学〈ブーム〉の火付け役ともなった作品だ。要約するとなるとずいぶん大義そうなので、あらすじは割愛。
訳者があとがきで触れているように、メキシコ都市小説の原点となった小説でもある。舞台は、1950年前後のメキシコ・シティ。ミゲル・アレマン政権下で未曾有の発展を遂げ、メキシコ・シティが大都市へと変貌する過渡期だ。同時期を扱った作品としては、ホセ・エミリオ・パチェーコ『砂漠の闘い』(1981)、ルイス・ブニュエル『忘れられた人々』(1950)などがある。半世紀以上も前の小説ながら、ベジャス・アルテス宮殿や、タイル張り(azulejo)のサンボンス、タクーバ通りのカフェ(カフェ・デ・タクーバか?)など、シティっ子(chilango)が聞けばいまだにピンとくる場所もたびたび登場する。
重層的に反響するおびただしい数の声と、不気味な存在のイスカ・シエンフエゴス。小説の描き方だけみれば、フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』によく似ているのかもしれない。両作品の決定的な違いは『ペドロ・パラモ』で描かれたのが地方であったのに対し、『澄みわたる大地』の舞台が都市であるという点だろう。前者ではコマラという辺境に君臨する圧倒的なカウディージョ、ペドロ・パラモが、そして後者では急速に発展するメガロポリスで成り上がったフェデリコ・ロブレスが権力の象徴として描かれている。生身の人間の怖さというものにスポットを当てれば、前者のそれが因習にがんじがらめにされた村社会の人間関係だとすれば、後者のそれはすぐ隣に素性の不明な他人が住んでいる、という隣人恐怖である。
発表者によると、メイン・キャラクターであるイスカ・シエンフエゴスはIxca Cienfuegoosと綴るのだそう。この作品の翻訳で気になったのが、Xの付く固有名詞だ。Xochimilcoが「チョチミルコ」と訳されていたり(ただし、二度目以降は「ソチミルコ」となっている)、Mixcoacが「ミクスコアック」となっていたり(ぼくの認識では「ミスコアック」なのだが)、ところどころで首を傾げた。無論、誤訳というわけではなく発音には個人差があるので、日本語で正式にはこう綴る、というものはない。
スペイン語のXは厄介だ。これには、もともとラテン語で[ks]と発音されていたものが、スペイン語で[sh]に変わり、さらに時を経て[x]に落ち着いたという経緯がある。しかし、発音が[x]までたどり着くと、今度は別の問題が浮上してくる。Jも発音上は同じ[x]なのだ。同じ発音なのに、表記が2種類もあるとややこしくて仕方がない。というわけで、[x]の音はJに担わせることにし、原則的に[x]音のXは使われなくなった……のだそう。
つまり、Don Quixoteはもともと「ドン・キショーテ」だったのであり、そのあと音が「キホーテ」になって、さらに同じ音のまま表記はDon Quijoteになったというわけである。現在、固有名詞を除いて、Xは基本的に[s]と発音される。が、これも人によっては[ks]だったり[sh]だったりする……。
Xochimilcoの場合、もともとのナワトル語で[sh]に近い音で発音されていたことからXがつけられたはいいものの、征服言語のスペイン語からXの[sh]音が消滅していくにつれ、[s]の音に変化したのだそう(本当だろうか?)。ちなみに頭のXochiは「花」という意味。人形島があることでも有名。この島の所有者が人形を吊るし始めたのが1950年代らしいので、『澄みわたる大地』で扱われているのと同じころだろうか?
とかく、こういった先住民言語に由来するXの発音は至極ややこしく、メキシコではXだけで確か6種類くらいの違った読み方があるのだ。手許にあるナワトル語辞典を引いても、発音記号までは載っていないので、こればかりは耳に頼る他ないのか?
ちなみに、ぼくがメキシコで教わっていた先生はAxolotlを「アホロートル」ではなく、「アショロ—トル」と発音していた。コルタサルの短篇に同じ名前のものがあるが、邦題は「山椒魚」。なんのことはない、ウーパールーパーだ。あるいは「メキシコオオサンショウウオ」だ。Axolotlの読み方、ぼくは断然「アショロ—トル」派だ。だって、あんなアホ面で、名前が「アホロートル」なんてあんまりではないか……。
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