2016年10月15日土曜日

ラテンビート映画祭 / LBFF(前半)


①波多野哲朗『サルサとチャンプルー』(2007、日本)
 グルメ映画ではない。このドキュメンタリーは沖縄とキューバの歴史的・文化的類似性を指摘することから始まる。公式HPの紹介にもあるように、「スペイン・アフリカ・アメリカの文化が混合したキューバと、中国・日本・琉球、そして戦後のアメリカ占領下での文化が混ざりあった沖縄」が有するクレオール性。そして、大陸から切り離された地域であるがゆえの周縁性、あるいは「南」であるということ。ふたつの島には少なからぬ共通項を見出すことができる。
 昭和初期、沖縄からキューバへと移り住んだ人びとがいた。作中では沖縄移民一世の最後のふたり、島津三一郎さんと宮沢カヲルさんが当時の様子を、時に歌いながら、時に目を伏せながら語っている。現在ではお二人とも亡くなっている。
 イスラ・デ・ラ・フベントゥ Isla de la juventud はキューバ島の南西に浮かぶ小さな島である。スティーヴンソン『宝島』のモデルになったとも言われるこの島に、沖縄移民たちはコミュニティを作った。支配者の交代に伴い、幾度となく名称が変化してきたこの島は移民たちがやってきた頃、イスラ・デ・ピーノス Isla de pinos という名前であった。その名残から、彼らはいまだにこの島を「松島」と呼んでいる。
 この島にはプレシディオ・モデーロ刑務所という典型的なパノプティコンがある。現在は廃墟と化しているこの建物は、バティスタ政権下で政治犯の監獄として機能していた。囚人たちの中には若かりしころのフィデル・カストロもいた。第二次世界大戦中には、この円形刑務所の別棟にドイツ人や日本人が収容された。日系移民たちも例外ではなく、キューバの参戦から終戦までの約3年間、ここに入れられて強制労働をさせられていたのだと言う。
 キューバの歴史の本質はディアスポラにあると言えるのかもしれない。原住民が征服者たちによって駆逐されたのち、アフリカからは黒人奴隷が大量に連れてこられ、独立後は息を吐く暇もなく宗主国がスペインからアメリカ合衆国に取って代わった。キューバという国の構成物は決してとどまることなく、流れ続けてきたのだ。そして、20世紀の初頭になるとこのストリームに接続される支流としての日系移民がやってくる。このドキュメンタリーが焦点をあてているのはまさにこの部分である。このようなめまぐるしい変化を考えれば、上記で語られるような暗い歴史は混淆物の氾濫の帰結として、むしろ必然的なものに思える。しかしながら、映像で見るキューバの人びとと沖縄移民たちの語りには常にリズムと身体の動きが伴っており、それを目の前にした観客は憂いを忘れるほどに圧倒されてしまう。悲しいのやら楽しいのやら、何が入ってるのか分からないんだけれども、なんだか素敵な味がする、まさしく「サルサとチャンプルー」といった感じの映画だ。

②アンドレス・フェリペ・ソラーノ『ホワイト・フラミンゴ』
 コロンビア出身で、現在は韓国在住の作家アンドレス・フェリペ・ソラーノがLBFFのために書き下ろした短篇を戯曲化したもの。朗読劇のかたちで宮菜穂子さんと榊原広己さんが演じた。当日のティーチインでは、この短篇が生まれた裏話なども話題にのぼった。
 マフィアの構成員であるドゥケは、組織のボスに命じられてマイアミへとやってきた。彼を裏切り逃亡したかつての相棒ハイロを始末するためである。ふたりはホテル〈ホワイト・フラミンゴ〉で再会するも、ハイロは性転換手術を受け女性になっており、いまはマリエラと名乗っていた。ふたりの過去が対話、あるいは傍白のかたちで語られる。あてどもない会話が続き、マリエラは彼女がいま生業としているブランド腕時計を売りさばく仕事を手伝うようドゥケに持ちかける。ドゥケは返事をせず、席を立つ。舞台は暗転し、銃声が鳴り響く。
 この作品における登場人物たちには様々な面での揺らぎがある。ドゥケの本名はリバルドであるが、ホテルの予約にはアルフォンソというまた別の偽名を使っている。一方でかつてのハイロも改名しており、現在はマリエラと名乗っている。そればかりか性別すらもが変わってしまっているのだ。さらに、ドゥケは組織のボスの命令に従ってマリエラを殺すべきか否かで逡巡しているし、マリエラもおそらくはそのことを知りつつも、つまり自らの生命を危険に晒しながらもドゥケに接触してしまう。こうした自己同一性の不確かさ、理性と衝動のせめぎ合いとでも呼ぶべき要素が、不思議な空気を醸し出している。彼らはあくまで感覚的に話をしているのだけれども、「古くてベトベトした紙幣は人に罪悪感を抱かせる」、「権力を誇示したい人間は腕時計に狂う、なぜなら書類にサインするふりをして控えめに己の力をみせつけることができるから」などの論理には妙に説得力があって、納得してしまう。
 縁あってこの戯曲の翻訳をお手伝いしたので、話の筋は事前に知っていた。しかしながら、曖昧模糊としていた人物像が実際に演じられ、血と肉を備えた存在として目の前に現れると、当たり前だが全く違った印象になる。最前列の観客から手が届くような距離で演じられたこともあり、普通の劇以上に臨場感があったのではないかと思う。これは余談になるけれども、あとから聞いた話では最後の場面はギリギリになって変更が加えられたのだとか。最終的に銃弾は暗転後に発射されるという演出になっており、これは誰に向けて発砲されたのかが分からないようにするため、とのこと。

③イシアル・ボジャイン『THE OLIVE TREE』(2016、スペイン)
 イシアル・ボジャイン監督はビクトル・エリセ『エル・スール』でエストレージャ役を演じた人物なのだと教えてもらった。そんな彼女が、スペインのテレビドラマで人気を集めている女優アナ・カスティージョを主演に抜擢し、撮影した映画がこれだ。
 主人公アルマの家には先祖代々受け継がれてきた大きなオリーヴの樹があった。アルマの祖父はそれを大切に育ててきたのだが、家計が逼迫してきたことを理由に、オリーヴの樹は息子たち(アルマにとっての父親と叔父)によって売られてしまう。以来、祖父は見るからに衰弱し、半ば認知症のようになってしまう。そんな祖父を元気づけようとアルマは樹を取り戻すことを決意し、売却先であるドイツに向かう……というのがあらすじ。
 この映画『THE OLIVE TREE』の前半部には、オリーヴの売却をめぐって祖父と父親が言い争っているのを見つめているアルマの姿がある。スペイン語圏の映画では、大人たちの不和(それは恋愛関係をこじらせてしまった夫婦の軋轢だったり、政治的弾圧に対する道義心からくるものだったりするのだけれど)と、それを覗き見する、あるいは盗み聞きする子どもという構図が頻繁に現れる……ような気がする。上に挙げた『エル・スール』もそうだが、ホセ・ルイス・クエルダ『蝶の舌』やダニエル・ブスタマンテ『瞳は静かに』などでも同様の視点が効果的に用いられている。ジュリー・ガヴラス『ぜんぶ、フィデルのせい』はフランスの映画だが、ここでは父親がチリのサルバドール・アジェンデによる社会主義政権に同調したことがきっかけで、親と子のあいだに葛藤が生じてしまう。このような政治が絡んだ複雑な問題も、子どもの目線から捉え直すと、単純に「ぜんぶ、フィデルのせい」になってしまうというわけで、そこがおもしろいところ。何もこうした視点の導入はスペイン・ラテンアメリカ映画の専売特許というわけではなく、(トリュフォーの『大人は判ってくれない』や小津安二郎『生まれてはみたけれど』などを思い出せば容易に確認できるように)どこの国でも、そしていつの時代でも至極普遍的に扱われる主題である。けれども、スペイン語圏の映画の場合は政治にコミットする内容のものが多いこともあってか、こうした操作が顕著で、印象的だ。
 また、あらすじだけみればハート・ウォーミングな映画に思えるかもしれないが、スペイン人であるアルマの叔父がドイツ人に対して劣等感を感じていたり(そもそもオリーヴの樹が売却されたのもドイツのエネルギー会社であるのだが)、樹を取り戻すための資金集めにSNSが駆使されていたりと、昨今のEUや若者の世相を反映していてなかなか社会派なフィルムなのだ。ティーチインの様子がこちら

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