ホセ=エミリオ・パチェーコは実にマルチな作家だなと思う。
いちばん知られている作品はやはり、Las batallas en el desierto『砂漠の戦い』だろう。確か、日本にいる時にいちど『ラテンアメリカ五人衆』というアンソロジーで見かけたのだった。ここでの五人衆というのは、マリオ・バルガス=リョサ、オクタビオ・パス、シルビーナ・オカンポ、ミゲル・アンヘル=アストゥリアス、それにホセ・エミリオ=パチェーコ。その半年後くらいに故あって、メキシコで原文で読んだ。確か、彼の死去が報じられたのはその直ぐあとだったように記憶している。しばらくはどの書店でもパチェーコの作品が平積みされていた。UNAMの哲文学部の前の露店でも売られていた。絵に描いたような(洒落ではなく)アメリカ人女性の挿絵が真っ赤な表紙に、映えていた。この作品に関しては、内容を書くのも今更な感じがするので当時のノートの走り書きを覗いてみる。
・中東戦争=砂場
・『卒業』、『スタンド・バイ・ミー』、『今を生きる』
・americanización, burbuja económica, compulsión de repetición
・No existía "Adolescencia" en 1980
・Miguel Alemán (El primer presidente del PRI)
・Industrialización/Modernización
・Desarrollo estabilizador, "Milagro mexicano(~1970)"
・Lo pasado es siempre mejor que lo del presente
・Mariana, representación de la Rev. de la imagen de mujeres
・Nostalgia, Recuerdo, Memoria de "Narrador del presente"
だそうだ。わかるような、わからないような。ただ、「繰り返しによる強迫」というのは、"Por alto esté el cielo en el mundo, por hondo que sea el mar profundo"という一文が繰り返されていることに言及しているのだと思う。赤が引いてある。たぶん、当時フロイトとか読んでたんだろうな。
それから本文では、日本との関係が示唆されている部分、時代が限定できる要素、アメリカの影響が見られる点、諸外国が参照されている点などに赤が引いてある。えらい真面目に読んでいたみたいだ。わたしもカルロス同様に、記憶を辿ってみた次第である。
ここからが本題なのだが、今回は新たに短編を3つ読んでみた。ひとつめはEl viento distante「遠き風」。僅か2ページの短編なのだけれど、なんだか不気味な雰囲気が漂う作品。おそらく、筋を書こうとするとネタバレになってしまうのでやめておく。現実の世界と非現実的な世界が、衝突することなく併存している、という点は特筆するべきところかもしれない。ファンタスティックな世界は、人間の知覚だけで創り出せるのだ、魔術なんて必要ないぞ、というお話?
El mundo real y el mundo irreal se mezclan en el espacio especial (la feria) sin que se choquen porque los dos personajes (los conservadores de la realidad) salieron del mundo irreal sin darse cuenta. Es decir, el mundo consiste en la percepción de alguien.
Cf. Choque de García Márquez
ふたつめはParque de diversiones「気晴らしの公園」という短編。これは面白かった。いわゆる動物寓意集。アレゴリックな内容で、カフカやオーウェルがジャンルとしては近い気がする。
最後がLa luna decapitada「首を斬られた月」。これはある意味ノンフィクション歴史小説。オブレゴンがMancoという呼称で呼ばれていたり、ある程度のメキシコ革命に関する知識が必要かもしれない。
Las batallas en el desiertoは青春小説として読むことができると思う。前述したとおり、El viento distanteは幻想小説、Parque de diversionesは動物寓意もの、La luna decapitadaは歴史小説とカテゴライズできる。加えて、ホセ=エミリオ・パチェーコ、どうやら翻訳家としても働いていたらしく、サミュエル・ベケットやオスカー・ワイルドの作品も訳している。もともと、詩人肌なところもあるようだし、ジャンルの多彩さからもっと注目されてもおかしくない作家だと思う。これから、邦訳も進むだろうか。というわけで、マルチな作家だなあと。
2014年4月14日月曜日
2014年4月12日土曜日
Casa del Lago①/Daniel Espartaco Sanchez
1月の終わりから、少しずつ読んできたカサ・デル・ラゴ世代の作家をぼちぼちまとめ始めようと思う。手始めに、ダニエル・エスパルタコ・サンチェスの短編をふたつ。
1)América
メキシコ中流家庭で育った「ぼく」が幼少期を回想している。家族構成は、「ぼく」、妹、父親、フリア(「ぼく」は決して、彼女を母親と呼ばない)。ある夏の日に、一家は新車のヴォルクス・ワーゲンのセダンでテキサス州はエル・パソへと買い物に出かける。ショッピングモールに到着し、父親は好きなものを買いなさい、と「ぼく」と妹に50ドルを渡す。服なんかが良いんじゃないか、と父親には勧められたものの、「ぼく」はその50ドルを漫画に使い果たしてしまう。ところが妹はその50ドルで自分が欲しいだけのおもちゃを買い、それとは別にフリアに洋服も買ってもらっていたものだから「ぼく」は何ともやりきれない。駄々をこねて父親に新たに53ドルを貰い、「ぼく」は洋服屋へと向かう。そこで、ズボンとシャツとTシャツを買おうと決めるのだが、お金が足りない。「ぼく」は試着室に入って、Tシャツのタグを引きちぎり、お腹に隠して万引きしようと試みる。試着室にはFitting rooms area is under video surveillanceと書いてあったが「ぼく」にはFittingとsurveillanceの意味が分からなかった。試着室を覗きに来た父親が事態を察し、悲しげに「そんなことをする必要はない。尊厳を失ってはいけない」と諭し、「ぼく」が選んだ洋服の支払いを済ませる。「ぼく」のポケットにはには手つかずの53ドルが残った。
筋だけをざっと追ってみれば、何の変哲もないオートフィクション(?)なのだが、随所で示唆される時代背景と、米墨間の歪な関係がこの小説を読み応えのあるものにしている。
思春期の回想、中産階級家庭、などの特徴から、この短編を読んで、ホセ・エミリオ・パチェーコのLas batallas en el desierto(『砂漠の戦い』)を連想するのは、まっとうな感覚だと思う。この短編の時代背景は、冒頭に記された「にわか景気」bonanzaという用語や、湾岸戦争以降、ソ連崩壊以前、その他諸々の手がかりから、おおよそ1990~1995年ごろだと推測できる。一方、『砂漠の戦い』はというと、ミゲル・アレマン政権下の工業発展に沸いた時代であるから、1946~1952年。ということで、ふたつの作品の間には40~50年の隔たりがある。クロノロジカルにこのふたつの短編を比較してみるのも面白いのではないか。
さて、前述したとおり、メキシコ人の男の子が主人公なのだが、どうやら彼の父親はかつて共産主義者としていささか過激に活動していたらしく、警察にお世話になったこともあるようで、ソ連からやってきた父の友人と「ぼく」とのやり取りが面白い。「いつの時代にもおいても、偉大な作家というものはロシア語で書いたのだ」と主張するソ連の友人に、「ぼく」は「英語は未来の言語だ」と反駁するのである。「ぼく」は、米国の雑誌やハリウッド映画を観て英語を独学で勉強している。英語が話せるということには、彼のみならずでなく妹やフリアも何となくステータスを感じているようで、「ぼく」は気になる同級生マリア・デル・カルメンの前で、Me voy de shoppingなんてスパングリッシュを話している。エル・パソへの旅行中にも、「ぼく」は今こそ培ってきた英語の見せ所だ、と鼻息を荒くするのだが、国境検問所でも、ハンバーガー・ショップでも、ことごとくスペイン語で話しかけられてしまい意気消沈するのであった。かような英語への盲信と憧れがありながらも、父親の影響からか、子供ながらに米国を 「パナマやイラクのような国々を侵略し、サルバドール・アジェンデのような政府を転覆させたヤンキーども」と認識している節もある。こういう、メキシコ人の「資本主義大国アメリカなんて大っ嫌い!でも米国カルチャーは愛してる!」みたいなメンタリティは、オクタビオ・パスの評論に書いてあった気がする。一方で、父親は英語を介さないものの、試着室の警告は直感で理解していた。No smokingの警句に戸惑いを感じていたり、試着室の場面でも「私生活は監視できない、と奴らに言ってやれ」とこぼしたりと、ある種、静かな抵抗者として描かれているようにも思う。
15ページ程度の短い作品ではあるが、様々な構図がみてとれる。fantásticoやら、lo maravillosoの温床であるラ米文学の樹海にあって、こういう家族ものにあたると何となくほっとするな。
2)Jardín
この短編に至っては、4ページしかない。内容も実にシンプルだ。
「ぼく」が妹と留守番していたら、庭にダチョウがいた。
試しに、ダチョウとの邂逅シーンを少し翻訳してみよう。
*****
テレビと本のイラスト以外では、直接見たことなんてなかった、バラの木の横で、庭からぼくの方に頭を曲げたそのダチョウの話を、ぼくはしているんだ。1メートル以上もぼくの上にある、卵のような頭、気持ち悪いきめをした皺の寄った首、それからおばあちゃんがミサに行くために使っていた洋服みたいな黒と灰色の羽毛。ダチョウは親しみやすい種類だと思われているけれど、そいつは攻撃的な動物に見えた。ぼくはパニックというものを感じて、ドアを閉めた。
「どうしたの?」ルシーアが尋ねた。
「庭にダチョウがいるんだ」
*****
ひょっとしたら動物ものには弱いのかもしれない。コルタサルの『パリにいる若い女性に宛てた手紙』もそうだったが、読んでいてニヤニヤしてしまう。
メモ
1990~1995年にはまだビデオカセット(VHS)がメディアの媒体として活躍していた
この短編において、セダンはメキシコのマキラドーラで製造されていた
言語(カルチャー)の勢力図とナショナリズム、またその分布図は国境とは一致しない
グローバリゼーションの中にあって、米墨国境の越え難さ Cf.『2666』
2014年4月7日月曜日
日常に蔓延する換喩
週に二三度は学校から下宿先まで歩いて帰る。きっちり四十分の道程である。天気が良いから、時間があるから、或いは、健康のため、気晴らしのため、理由は日によって様々だ。畢竟、何でも良かったのである。
帰り道は緩やかな下り坂になっていて、大通りをひたすら真っ直ぐに歩けば、下宿先の近く迄行く。途中、住居にしては少々厳かに過ぎる、宮殿風の建物がある。その周りには大抵、黒服を身に纏った、それも大半が老齢の男性がたむろしていた。これが果たして何のための建物であるのか、考えたことが無いではなかった。しかし、些末で取り留めのない疑問は、日常に追われ雲散霧消するのみであった。そういうわけで、純白の宮殿はだいぶ前から単なる帰り道の風景の一部となっていた。
ある日の午後も、歩いて帰ることに決めた。確か、その日は少し憂鬱な課題が控えていて、無意識に下宿先に戻るのを先延ばしにしたかったのだと思う。宮殿の前を通り過ぎる時、ひとりの老婦人が泣いているのが見えた。ぼくは、はっとした気持ちになった。
ぼくは、もっと早くに気づいても良かったはずなのに。
2014年4月6日日曜日
『****のバラード』(未訂正)
『****のバラード』
(始まり)
今になって
ヴィヨンの気持ちが良く分かる
死にそうなほど
ヴィヨンの気持ち
ヴィヨンの気持ち
ヴィヨンの気持ち
(4:44/地下室/ソファ)
耳を聾する騒音の中で
蟲が蠢く気配を感じた
(思い出し、検証する/15:38/快晴)
(始まり)
僕は/ついこの間/知った
手紙の消印
ナイン・ボールの落としかた
夢から取り出したチョコレイトの味
そして
心地良い寝相を
(これは村上春樹が知らないことだ)
ペトリコールの化学物質も分かる
(メモを取り出す/geosmin)
今になって
ボラーニョの優しさも分かる
萩原朔太郎の鳴き声も分かる
ワイルドの嫌悪も分かる
****
胡蝶の夢のGPS所在地
それから
まやかしも
缶詰を並べた理由だって
もちろん
柱の、影
キューブリックが33年後に夢見た
桃源郷/楽園も
(選択)
ヒドラ、
灯台の心許なさを思い出す
誰が、何を、この詩に望んだのか?
洪積世の雑巾がもたらしたもの
(バカルディを一滴、床に吐きだす
これは、意図的であっても偶発的であっても構わない)
不敵な、君の微笑みと囁き
帰れない笑窪
と
プラトン
染みだらけのランチョン・マット
鍵盤の上のシーシャ
経血塗れの革靴
螺旋階段
(斜体)
彼女はおたまじゃくしも読める
(ここからはもうひとつの詩)
君は光を見たと言うが
それは
ネオンだったか?
曙光だったか?
悪魔の涎だったか?
それとも照空光?
(戻る)
西瓜としゃれこうべ
(五行改行)
こうしたかけがえのないものを
僕らはいともたやすく
手に入れて/捨てる
(A→blank→B)
鍵穴の憂鬱
愛国者が履きつぶしたコンバース
三月の水の銃声
聖母のRe:cycle
セルバンテスの抜け落ちた乳歯
大丈夫だ
(sic.)
いち/zwei/trois/四/cuatro
the hundredth
0
恐竜
警備員
三文芝居はやめろ
毒虫の鼓動も
太陽の罪も
架空生物の舌舐めずりも
君が前髪を切り揃えた日付も
良く覚えている
(僕は髪を耳にかける)
地震と津波
四畳半にぶら下がった
ドイツ人医師
その脱け殻
ラ・マーガに逢おうとした理由も
アドルフが高速道路を作った理由も
漱石が倫敦塔を二度見なかった理由も
理由
ナオミの我儘と癇癪も
塹壕のクリスマスも
渋谷のハチ公が見た初雪も
地下室の手記も
(地下室、は既に書いたが意図的ではない)
人が少ない
(現実には沢山いたのだが、そう記してある)
ひとりの男を・殺しかけた
(その罪は檸檬にあった)
魔の山の構図も
僕の背広から飛び出した
栓抜きで開けた琥珀の口
そこから広がる深淵にも
君はキスをした
水曜日だった
灰色
×⚪︎⚪︎(要チェック)号室の
精神病患者の気持ちも
ピュグマリオンの気持ちも
ボヴァリー婦人の気持ちも
サングラスが隠したマッカーサーの弱さも
全ての詩人が
手に入れることの
できぬまま息を引き取った
林檎と蛇の所在も
モビー・デイックの墓場も
異常無き西部戦線の異常も
泥酔の夢で溺れ死んだ猫も
(漱石の猫とポーの猫は、本質的には別の個体であるが、ここでは同一のものとみなされている)
ハイリゲンシュタッド
ジャイサルメール
多磨霊園
それから、国道18号線
ロックウェルの三面自画像にも
僕を仇名で呼ぶ友人の引き出しにも
刃の元にも
永遠が無いこと
(引用)
そして
書生が訪れた海辺にさえ
アニエスの浜辺にさえ
君が知らせたカリフォルニアの海岸にさえ
(二人は天国を目指した)
天国なんて無いってこと
ドーナツの/穴
(rhythm)
虎
(続く)
禁煙の意味
君が屋上で話しかけた時のコンクリートの冷たさ
銃口に花を突っ込んだ男の死因
古代
In my life.
Boys don't cry.
I can't get no satisfaction.
(右に寄せる)℃
書記長が泣きながら
部屋に鍵をかけた
読まれていない/書かれていない
(α/β)
詩は此処にある/ない
なぜなら
羽箒は触れられてもいないし
僕はまだ口を一切開いていない
沈黙
目の前を黒猫が横切ったので
僕は君に逢いたいと思った
凍傷のはつ恋
(区切り)
(ここから二項対立)
白/黒
塩と砂糖もそうだ
革命
眠たい記憶の中で
自民党と民主等の軋轢を話した
瞼をこすりながら
ジーンズには穴が空いていた
前にも後ろにも
セントラル・パーク
収穫
誰とも繋がっていない
(分断)
剥き出しの実存主義者
断頭台の揺り籠
(既に書いた筈だったが)
サトゥルヌスの掌の角砂糖の数
キリンの縞
(記憶が飛ぶ)
自分が何語を話しているかも
定かではなく
◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎と巻き毛
それから、
明日を考えられること
(2日後、2度の睡眠を挟んだということ)
粘性
(回帰)
要するに何だって分かる、
自分のこと以外なら。
それから
(意図せず、再び話が逸れる)
現在地もーーー
(戻る。収束/収斂に向かう)
台所でスープを温める君の気持ち
それ以外ならなんでも
床に就く/家路に着く
A→Á
2014年4月5日土曜日
散財した春の初旬
暇を持て余した午後、ベジャス・アルテスまで探索に行き、本を何冊か買ってきた。今日は雨が降らなかった。
コルタサルのRayuela、ルルフォのPedro Páramo、ホセ・レサマ=リマのParadisoをLetras Hispánicas版で。このエディションは注釈が多く、スペイン語初学者には非常に助かる。値段も元値は割と高めなのだけれど、だいたい値引きされているのでestudihambreな身としても、これまた助かる。パスのEl laberintoo de la soledadもLetras Hispánicasにあったはずなのだけれど、ちょうど売り切れてしまったところだったらしく、来週には再入荷するとのこと。でもまぁ折角なのでパスも読んでみようとPequeña crónica de grandes díasを購入。30%オフだったので。"Piezas de convicción"に、日本とメキシコを扱った章があり、おもしろそう。それから、ギジェルモ・カブレラ=インファンテのAsí en la paz como en la guerraが40ペソで買えたのは予想外だった。わざわざ、図書館で丸々一冊印刷したのに。欲しいときには出逢えないものだ。当分は読む本に困らなさそう。そろそろ本棚の整理でもしようかしら。
何かの折に見かけて気になっていた、ハイメ・サビーネスのある詩を全集で確認できたので動画で載せておこう。このOtra cartaはふたつめの詩集La señal(1951)に収録されているので、割と初期の作品のようだ。彼、フエンテスとほぼ同世代だったのだな。
コルタサルのRayuela、ルルフォのPedro Páramo、ホセ・レサマ=リマのParadisoをLetras Hispánicas版で。このエディションは注釈が多く、スペイン語初学者には非常に助かる。値段も元値は割と高めなのだけれど、だいたい値引きされているのでestudihambreな身としても、これまた助かる。パスのEl laberintoo de la soledadもLetras Hispánicasにあったはずなのだけれど、ちょうど売り切れてしまったところだったらしく、来週には再入荷するとのこと。でもまぁ折角なのでパスも読んでみようとPequeña crónica de grandes díasを購入。30%オフだったので。"Piezas de convicción"に、日本とメキシコを扱った章があり、おもしろそう。それから、ギジェルモ・カブレラ=インファンテのAsí en la paz como en la guerraが40ペソで買えたのは予想外だった。わざわざ、図書館で丸々一冊印刷したのに。欲しいときには出逢えないものだ。当分は読む本に困らなさそう。そろそろ本棚の整理でもしようかしら。
何かの折に見かけて気になっていた、ハイメ・サビーネスのある詩を全集で確認できたので動画で載せておこう。このOtra cartaはふたつめの詩集La señal(1951)に収録されているので、割と初期の作品のようだ。彼、フエンテスとほぼ同世代だったのだな。
Quisiera hablar de ti a todas horas
en un congreso de sordos,
enseñar tu retrato a todos los ciegos que encuentre.
Quiero darte a nadie
para que vuelvas a mí sin haberte ido
というのが、先述したどこかで見かけた節だったのだけれど、全文を確認したら思った以上にamor amorしていた。
果たして月の初めから、またも節約生活である。Semana Santaもずっと引きこもっていようかしら……。
ラベル:
Jaime Sabines,
México,
詩,
生活
2014年4月3日木曜日
どこもかしこもオクタビオ・パス
今年2014年はオクタビオ・パス生誕100周年の記念年だ。とりわけ、3月31日は彼の誕生日で、ここ一週間ほどは、どこもかしこもオクタビオ・パスという感じだった。
ミゲル・アンヘル・ケベード沿いにあるFCEオクタビオ・パス店は新装開店を経て、売り場がひとつ上の階に移動し、随分と店内が明るくなっていた。レジ前にオクタビオ・パス特集コーナーが設置されていて、関連書が平積みされていた。詩の朗読会も催されていたみたいだ。メトロに乗っていてもホームにでかでかとポスターが張られていたり、バスに乗っていても車内のテレビでパスの詩が紹介されていたり、街でパスの顔を見かけない日は無いと言っても過言ではなかった。
メキシコ人にとって、メキシコ文学の父といえば他ならぬ彼のことであり、中学だか高校だかでみんな『孤独の迷宮』には目を通すそうだ。友人に聞いたところ、やはりパスは随筆の作家というイメージが強いようで(小説ならカルロス・フエンテス、短編ならホセ・エミリオ・パチェーコ、詩ならハイネ・サビーネスだと言っていた)、El arco y la lira、La llama
doble、El laberinto de la soledad、Piedra de sol、¿Águila o sol?、この5冊はメキシコ文学を語るうえで欠かせない重要書だと力説していた。
少し前にUNAMでも記念講演会があって、行ってきた。左派としてのパス、ラテンアメリカの作家と社会主義国との関係(マルケスとキューバ、コルタサルとニカラグア、ネルーダとソ連など)、トラテロルコ事件以降のパス、帝国主義とパス、インド思想とパス、など複数のパネリストがそれぞれの視点からオクタビオ・パスを語っていた。そのうちの一人が、「ラテンアメリカの世界における思想家は4人しかいない」と述べ、シモン・ボリバル、ホセ・マルティ、オクタビオ・パス、カルロス・フエンテスの名前を挙げていた。No dejar a Paz en pazなんて、少し笑いを誘う言い回しもあった。
そして今日はCineteca
Nacionalでパスに関連する映画の上映会があり、行ってきた。入場は無料だった。太っ腹。1本目のHomenaje a
Octavio Pazはパスの独白と、何人かの作家と研究者(サルバドール・エリソンドやカルロス・モンシバイス、いわゆるカサ・デル・ラゴの作家たち)へのインタビューを交互に挟んだドキュメンタリー形式のもの。続く2本目はスウェーデンのテレビ番組として撮影されたPiedra de sol。パスの同名の詩に映像を付けたものだ。そして3本目のフィルムは、パスとフエンテスによるアルフォンソ・レイエスについてのインタビュー。上映の合間に監督による説明と質疑応答の時間があった。監督は、フランスで大使の職を持っていたという3人の共通点を指摘しながら、それぞれが3つの連続した世代を代表するメキシコの作家であると述べていた。確かに、1889、1914、1928と生まれた年がある程度の間隔で並んでいることに気づかされたのだった。
街に飽和しているパスが夢に出ないうちに、こうして悪魔祓いをしておこうとなんとなく思った。
2014年4月2日水曜日
三月の水も止む
午後に、雨が降るようになった。 新しくなったFCEを少し覗くだけのつもりだったのだが、ぽつぽつ雨が降り出して、止むのを待つうちに雷まで鳴り始めたので長居してしまった。 欲しかった本には出会えなかったが、ボルヘスの詩集を発見した。
4月になった。
2014年4月1日火曜日
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