2016年12月22日木曜日

贈与とクリスマス

 
年の瀬も近づき、街もぎらぎらと騒がしい色になってきた。先月、こんな本が出た。クロード・レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』中沢新一訳(角川書店、2016)。

 旧版にクロード・レヴィ=ストロース『サンタクロースの秘密』中沢新一訳(せりか書房、1995)がある。「火あぶりにされたサンタクロース」は同書に収められている論文のタイトルだ。このたび刊行された新装版では、この論文題目が書名としてそのまま使われている。「火あぶりにされたサンタクロース」自体は日本語で70ページ足らずの短いもので、それに加えて中沢の解題「幸福の贈与」が併録されている。合わせて100ページと少し。新装版と旧版の異同は確認していないが、今回覗いたのは『サンタクロースの秘密』の方だ。

「火あぶりにされたサンタクロース」は1952年に『レ・タン・モデルヌ』誌に掲載された。編集長を務めていたのはサルトルだ。この論文執筆の依頼を通じて、後に実存主義にとって最も厄介な論客となるレヴィ=ストロースと、「カミュ=サルトル論争」の渦中にあり依然として耳目を集めていたサルトルが出会ったというのだから、いささかドラマティックでもある。

 本論文は1951年12月24日に起きた、とある事件から始まる。フランス中部に位置する街ディジョンで、衆人環視の中でサンタクロースが火あぶりにされたというのである。しかも、この火刑は大聖堂前の広場で、聖職者の同意のもとに執行されたのである。レヴィ=ストロースはこの事件を俎上に上げて、サンタクロース論を展開してゆく。
 なぜ、サンタクロースは火あぶりにされたのか? 端的に言えば、サンタクロースは異教のシンボルとみなされたのである。元来キリストの降誕を祝う祭であったクリスマスが、サンタクロースという存在によってその本来的意義を失いつつある。このことに教会は脅威を抱き、かような蛮行に及んだのである。

 ライシテを標榜するフランスでこのような事件が起きたことは、現代的な観点から見てもおもしろい。この処刑の背景には、戦後フランスにおいてアメリカ合衆国の存在が肥大化してきたということがある。マーシャル・プランの恩恵を受けて復興を進めていたフランスへは、米国文化が大量に流入したのだった。サンタクロースのモデルはいうまでもなく、聖ニコラウスである。オランダ語で聖ニコラウスを意味する〈シンタクラース〉が訛って英語ではサンタクロースとなり、全世界に広がった。けれども、我われが今日よく知るクリスマスおよびサンタクロースを米国由来のものだと決めつけてしまうのは早計だろう。これらは長い歴史のなかで、形態を大きく変えながら現在まで生き残っているのであって、その最新モデルが米国式というだけの話なのである。

 レヴィ=ストロースは、サンタクロースとは「社会を、いっぽうに子供、もういっぽうに青年と大人を配した二集団に分割する、差異の原理を表現」するものだと説明する。サンタクロースはそれを信じている子供のもとにしかやってこない。サンタクロースへの信仰を捨てたとき、子供は大人の集団に組み込まれる。これは一種の通過儀礼である。このような例は他にもある。アメリカ合衆国南西部に住むプエブロ・インディアンの社会では、先祖の霊や神を表象するカチーナたちが村々を周期的に訪れ、子供たちに罰や褒美を与える。けれども、カチーナという存在の本質は子供たちをしつけることではない。カチーナ神とはもともと溺死した子どもたちの霊なのである。つまりカチーナそのものが、子供であり、死者を体現しているのだ。この例をレヴィ=ストロースは重要視する。

 話をサンタクロースに戻すと、その起源は中世の〈喜びの司祭〉、〈サチュルヌス司祭〉、〈混乱司祭〉などにもとめられる。これらはいずれも、クリスマスの期間だけ王となることを許された存在である。教会はこうした異教の祝祭を救世主の降誕祭に作り替えてしまったのであった(イエスはもともと夏に生まれたという伝承がある)。ここで、サンタクロースを火あぶりにした協会側の言い分は全く筋が通らなくなってしまう。クリスマスとは本来的に異教的なものだったのである。古代ギリシャ・ローマ時代から中世までの〈12月の祭〉とは一言でいえば、カーニバル的な様相を呈していた。そこでは階層を隔てる梯子は取り払われ、男女はお互いの衣類を交換し、若者は力の限り騒いだ。こうしたカオスを治める役割を担っていた者こそが〈喜びの司祭〉であった。これがサンタクロースの原型である。
 
 けれども、現代のクリスマスに往時ほどの緊張はなく、若者は姿を潜めている。主役となるのは、子供たちだ。その集団は聖ニコラウスの代理人を務め、村中を歩き回り寄進を募る役割を担わされた。この伝統は現代のハロウィーンに受け継がれている。ここで、カチーナの事例を思い浮かべてみよう。カチーナとは子供たちの霊、すなわち死者であった。死者が寄進を求めるということは何を意味するのだろうか? 秋から冬にかけての闇が光を打ち負かす季節に、人びとは死者の来訪を怖れた。そこで、彼らに贈り物を捧げてもてなすことで、おとなしく生者の世界から立ち去ってもらおうと考えたのである。生者の世界において、死者(=他者)を体現できる存在とは、まだ社会集団に組み込まれていない存在、すなわち子供たちであった。

 このように歴史を概観し、解釈を与えたうえで、レヴィ=ストロースは始まりの設問に立ち返る。「なぜサンタクロース像は、かくも発展しえたのか」。現代において、死との関係は古代と比べてライトなものとなった。もはや我われは死者や幽霊を怖れてはいない。それにもかかわらず、その関係性を表象するサンタクロースは消えることなく、むしろ発展してきた。我われが、子供たちの持つサンタクロースの幻想を必死に守ろうとするのは何故だろうか。それはおそらく、「心の奥底では、ささやかなものとはいえ、見返りを求めない気前の良さとか、下心なしの親切などというものが存在することを信じていたい、という欲望」(53)を我われが持ち続けているからだ。「たぶん、私たちはその幻想が他の人々の心の中で守られ、それが若い魂に火を灯し、その炎によって、私たち自身の身体までが温められる、そんな機会を失いたくないのだ」(53、54)。レヴィ=ストロースは言う。「クリスマスの贈与。それは生きていることの穏やかさに捧げられた『サクリファイズ(供犠)』なのだ。生きていることは、まずなによりも、死んではいないことによって、ひとまずの穏やかさを実現しているからだ」(54)

 

 論文自体が平易な筆致で書かれていることもあって読みやすいのだが、供録の「幸福の贈与」を読むとさらに理解が深まるのではないかと思う。とりわけ冒頭部での「サルトルの思想には、不幸についての分析は、いっぱいある。しかし、実存主義は幸福については語らない。ところが、レヴィ=ストロースはこの論文で、幸福の秘密に触れようとしたのである」(71)という紹介などは白眉ではないだろうか。
 前半部ではマルセル・モース『贈与論』を軸に作品の解題がなされている。マーシャル・プランが実行に移されていたフランスはまさに米国から〈贈与〉を受けていたのであり、ここからバタイユ『呪われた部分』やレヴィ=ストロース『親族の基本構造』などが生まれてくる。
 後半部で中沢は「火あぶり……」の内容を確認しつつ、そこに〈贈与の霊〉という概念を持ち込んでいる。クリスマスをはさむ〈冬の祭〉の間には、死者たちが生者の世界へと流れ込み、世界のバランスが崩れてしまう。その均衡を取り戻すべく、我われが死者の領域に送るものこそが〈贈与の霊〉であり、祭壇に供えられる品物や贈り物は、それを物質化したものである。その媒介を務めるのが、若者であり子供たちなのだと中沢は主張する。しかし、こうした循環のシステムはブルジョワ社会の成立とともに変容する。物質主義的な近代において、死者たちの世界は無化されてしまう。また、啓蒙された社会では古くさい因習は廃止され、子供たちが夜道を歩くことも危険だと非難を浴びるようになる。けれども、理論のうえで死者たちの世界が消滅しても、大人は子供たちがその〈外〉の世界と繋がっていることを無意識で感じている。贈与は行われなければならない。ここで贈与を受け取るのはもちろん死者=子供たちである。その結果として、誕生したのがサンタクロースだ。この老人は、生者と死者の世界を繋ぐ媒介者の役割を肩代わりしたのだった。
 贈与には宇宙的な力の流動が寄り添っている。北アメリカのインディアンや、メラニシアの原住民たちの風俗には〈贈与の祭〉がある。そこで人びとは、客人を盛大にもてなし、物品を気前よく浪費する。モースはこれに着目して『贈与論』を執筆した。「商業は人と人の間に、分離をつくりだす。これにたいして、贈与は人と人を結合することができる。商業(これは等価交換を、第一原理としている)がロゴスならば、贈与とはエロスなのだ」(105)。個と個は〈贈与の霊〉を通じて、結びつくのだ。クリスマスもこうした贈与の祝祭である。ここで参照されるのが(ここまで読んできた誰もが思い浮かべていたであろう)ディケンズの『クリスマス・キャロル』である。スクルージは贈与のシステムを誰より嫌っている。けれども、彼はクリスマスに死者の霊との交信を通じて、人びとが無欲に贈与し合う様を目の当たりにする。果たして、彼のなかでは〈贈与の霊〉が動きだすのだった。




2016年12月10日土曜日

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて——チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』

アリエル・ドルフマン『南に向かい、北を求めて——チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』飯島みどり訳(岩波書店、2016

原書は Rumbo al Sur, deseando el Norte: un romance bilingüe, Barcelona, Editorial Planeta, 1998

 アルゼンチンに生まれ、後にアメリカ合衆国、チリと移り住み、1973年以降は亡命を余儀なくされた作家アリエル・ドルフマン(1942-)の自叙伝。本書は第一部「北と南」(1-8章)、第二部「南と北」(9-終章)で構成されている。著者の幼少期におけることばとの邂逅を綴った1、2章を除いて、奇数章では1973年のチリ軍事クー・デタ以降の出来事が述べられており、偶数章は1945年から1973年までを時系列順に追うものである。巻末には日本語版への付録として、2006年にピノチェトが死去した際に執筆された記事が2点掲載されている。大筋は同じ内容の記事だが、一方は英語、他方はスペイン語で発表されたものであり、異同を瞥見することができる。本書ははじめ英語で書かれ、のちにドルフマン自身がそれをスペイン語へと翻訳した。翻訳と言っても、もちろん逐語訳ではなく大部に削除・加筆・変更が認められる。

 アリエル・ドルフマンは1942年、ブエノス・アイレスに生まれた。彼の母ファニイは帝政ロシアの現モルドヴァに生まれたユダヤ人で、迫害を逃れてアルゼンチンへとやって来た移民であった。一方、父アドルフォは現ウクライナの裕福なユダヤ一族の出であったが、事業が失敗したことが原因でアルゼンチンへ、のちにロシアへと居を移す。ところがそこでロシア革命に遭い、再びアルゼンチンへと戻る、という波瀾万丈な人生を送った人物でもあった。ちなみに、『アンナ・カレーニナ』を初めてスペイン語へと翻訳したのがこの父親の母、つまりアリエルからみた父方の祖母であったのだという。(1、2章)
 1945年、共産主義者であった父が軍事政権の圧迫を受け、一家はニュー・ヨークへと移り住む。その直後、アリエルは肺炎を患い緊急入院する。その時からアリエルは北米人となることを決意し、以降10年間、スペイン語を話すことをやめる。(4章)
 冷戦が始まると、合衆国ではアカ狩りが熱を増し、1954年、一家はチリへの移住を余儀なくされる。アリエルは英国系の学校に編入し、ここで再びスペイン語(カステジャノ)を覚え直すこととなるが、チリに身を置いても、執筆活動は英語でのみ行っていた。ちなみに、合衆国時代から、著者は(共産主義者であった父がレーニンにちなんでつけた名である)ウラディミロという本名を厭い、勝手にこしらえたエドワードという名前を使うようになっていた。のちに、シェイクスピアの『テンペスト』(あるいはホセ・エンリケ・ロドーの『アリエル』)にシンパシーを感じ、もうひとつの本名アリエルを名乗ることになる。(6、8章)
 チリで貧困を目の当たりにしたアリエルは大学入学後、学生運動に盛んに参加し、サルバドール・アジェンデの選挙活動を手伝うようになる。1964年の大統領選で、アジェンデは敗北を喫するが、アリエルはそこで生涯の伴侶アンヘリカとも出会う。(10章)
 ラテンアメリカにおけるCIAの横暴、ベトナム戦争の開始などをうけて、次第にアリエルの心は北米を離れてゆく。1960年代のラテンアメリカ文学の〈ブーム〉を機に、アリエルは「翻訳者不要の英語でラテンアメリカの経験を書き記す」(316)可能性に思い当たる。そんな折、アリエルにカリフォルニア大学バークレー校への留学の話が浮上する。激動の1968年のことであった。(12章)
 アリエルは妻アンヘリカと息子ロドリゴを連れて、10数年ぶりにアメリカ合衆国の土を踏む。かつて親しんだホットドッグに舌鼓を打ちながらも、アリエルはヒッピーやニューレフトとも接触し、そこで米国における左翼運動の限界を見る。留学の期間を終え、1970年、チリに戻る。(14章)
 1970年、果たしてサルバドール・アジェンデが大統領に就任する。翌年、アリエルはアルマン・マトラールとともに『ドナルド・ダックを読む』を発表。「地球全体を覆う北米文化産業とどう対峙すべきか」を問うたこの主著、別名「脱植民地化の手引書」は、1973年以降、バルパライソ湾に投げ込まれたり、焚書の刑に処せられたりと、憂き目に遭うこととなる。アリエルはアジェンデ政権文化補佐官の職を得る。(16章)

 奇数章。1973年9月11日の事件当日、アリエルは本来モネダ宮殿で夜勤をしているはずだった。同日の午前中、あるプロジェクトの打ち合わせを抱えていたアリエルは同僚クラウディオ・ヒメノに当直の交代を頼んでいたのであった。クラウディオは亡くなり、アリエルは生き延びる。さらに彼の上司フェルナンド・フロレスは「歴史を語り伝えるために、生き残らなければならない者というのもいる」(6061)と考え、緊急時連絡電話一覧表からアリエル・ドルフマンの名を消す。アリエルはアルゼンチン大使館に逃げ込む。クー・デタを逃れて避難して来た大量の人びとに埋もれ、足止めを食らっていたアリエルであったが、ひょんなことから大使夫人と話すようになり、出国に成功する。夫人は米国人で、皮肉なことに、ここでも彼は英語に救われたのである。以後、アリエルは生地ブエノス・アイレスを経て、パリ、オランダ、メキシコと亡命を続ける。



 事実は小説より奇なりとはこのことか、と言いたくなるほどに波乱万丈な人生を綴ったアリエル・ドルフマンの自叙伝である。読んでいても、話ができすぎではないかと思うようなエピソードが盛りだくさんなのだが、ドルフマン自身もそれをひしひしと感じており、いたるところに運命の符牒を見出そうとする姿はさながらドン・キホーテのようでもある。
 亡命する作家の多いラテンアメリカにおいても、彼ほどの故郷喪失[デスティエロ]を経験した人物はなかなかいないだろう。そもそも彼の出自からして大変複雑なものであって、祖父母の代から俯瞰するとドルフマン家は、ロシア語、イディッシュ語、フランス語、英語、スペイン語、ドイツ語などが飛び交うカオスな言語環境にあった。無論、アリエル・ドルフマン自身もそうした諸言語の葛藤を逃れることはできなかった。とりわけ、彼の幼少期の出来事が語られる偶数章は、言語間(主にスペイン語と英語)を揺れ動く著者自身の煩悶が表れているようで、読み進めるのも一苦労である。翻訳では、lengua が「舌(ことば)」、idioma が「言語」、lenguaje が「ことば(レングアへ)」、palabra が「言葉、単語」と訳し分けられている。ドルフマン特有の繊細な言語感覚による指摘がなかなか面白い。例えば:

「いつの日か僕は気づくことになる、esperanza[ルビ:エスペランサ]希望の語はそもそも待つ[エスペラル]ことを旨とし、また辛抱強さを源に込めてもいる」(185

他にも、スペイン語の無人称構文を巡って、「スペイン語[カステジャノ]はスペイン語信者たちが己れの過ちを他人のせいにするお先棒を担いできたのであり、受け身構文がやたらと人気を博し、また hay que, habría que, sería necesario que ……主語に関わりなく~しなければならない、~しなければならないはず、~することが必要、といった言い回しを濫発する」(187)などと私見を述べたり、compañero という語には pan を分かち合うという意味が内包されており、これに相当する語は英語には存在しない、と言い切ったりするところなどは、思わず膝を打ちたくなる。


 これは余談だが、先日、神保町をぶらぶらしていたとき、ある古書店で件の『ドナルド・ダックを読む』を見つけた。ただし、アメコミの棚で。ここにも、何らかの符牒が見出されるべきなのだろうか……

2016年11月27日日曜日

ラテンビート映画祭 / LBFF(後編)



④クリストファー・マーレイ『盲目のキリスト』El Cristo Ciego(チリ、フランス、2016)

 クリストファー・マーレイはサンティアゴ出身、新進気鋭の若手監督だ。この映画以前にも、いくつかの作品を撮影しているが、単独での監督作品は本作が初。主演のミカエル・シルバを除いて、映画に登場する全てのキャスティングには、実際にストリートに暮らす人びとを起用したのだという。当日のティーチインでは、最も影響を受けたシネアストとして、パゾリーニとロベール・ブレッソンの名を挙げていた。
 マイケル(ミカエル・シルバ)は、チリの寒村、ラ・ティラナで技師として働いている。彼は自身をキリストと信じ込み、親友マウリシオにその掌を釘で打たせた過去を持っている。ひょんなことからその親友が怪我をして動けなくなっていることを知ったマイケルは、遠く僻地に暮らす彼に会うべく出立する。自分には奇跡を起こす力があると信じて疑わない彼は、その掌でマウリシオを治し、救おうと考えたのである。長い旅の道中で、貧しく暮らす路上の人びとと出会い、彼らを助け、時には彼らに助けられながら、マイケルはついに親友の許へと辿り着く。果たして、そこで奇跡は起きたのか……?
 チリの映画を観ていると、身体が欠損した人びとがたびたび登場するのに気がつく。その最たる例が、アレハンドロ・ホドロフスキーの作品群だろう。まあ、彼の場合はメキシコを舞台にした『サンタ・サングレ』においても両腕を欠いた女性を中心に据えているので、これは個人的なオブセッションと言えるかもしれない。けれども、『リアリティのダンス』の冒頭における不具の人びとの集団は印象的だろうし、ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)の両腕が硬直する事件などはプロットにおいても重要な役割を担っている。自分のものであったはずのものがない、あるいは動かない。身体の喪失。アレハンドロ・ホドロフスキーはそういった欠如を描くことで、そこにあるはずのものを鮮やかに浮かび上がらせるのである。
 さて、『盲目のキリスト』のマウリシオも脚の自由が利かない存在である。この障害の理由としては大きく分けてふたつの可能性が予想できるだろう。ひとつめは、危険な炭坑での作業に従事した労働者が何らかの事故に見舞われ、障害を負ったという仮説。ふたつめは、1973年のクー・デタ以降の拷問による後遺症。マウリシオの場合は前者であることが作中で明示されている。僻地に独り残され、何処へも行けないマウリシオはただ日々をじっとやり過ごしている。ここに描出されるのは、『ゴドーを待ちながら』の世界のようでもある。ゴドー Godot という名前が英語の God + フランス語の縮小辞 -ot であることから、ゴドーを神の比喩とする推測は広く知られるところであるが、『盲目のキリスト』において焦点が当てられるのは、待つ側の人間(すなわちエストラゴンとヴラジーミル)ではなく、迎えに行く側のマイケル(≒キリスト)である。すなわち、「ゴドーを待つ」のではなく、ここでは「ゴドーが行く」のだ。この点において、『盲目のキリスト』はベケットのそれとは一線を画す、能動的な世界であることがわかる。
 アリエル・ドルフマンは自叙伝『南に向かい、北を求めて――チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』(飯島みどり訳、岩波書店、2016)で「esperanza[ルビ:エスペランサ] 希望の語はそもそも待つ[エスペラル]ことを旨とし」ていると書いているが、この映画において、希望を抱いているのは待つマウリシオではなく(何故なら彼は自分の脚が治るとは微塵も思っていないし、親友が向かっていることすら知らされていないのだから)、むしろマイケルの方である。マイケルは奇跡など起るはずがない、と周りの人間に嘲笑されながらも、希望を持って親友の許へと急ぐのである。しかるに、本作で描かれているのは、〈希望〉という概念における構図の大転換――受動的な〈希望〉から能動的な〈希望〉へ――である……などと邪推できるのかもしれない。果たして奇跡は起きたのか、という問題は別として。

⑤ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン『名誉市民』El ciudadano ilustre(アルゼンチン、スペイン、2016)
『ル・コルビュジエの家』El hombre al lado(アルゼンチン、2009)でタッグを組んだふたりの新作である。脚本はアカデミー賞外国語映画賞にも出品された。トレイラーがこちら。東京国際映画祭でも上映されていた。
アルゼンチン出身の作家ダニエル・マントバーニ(オスカル・マルティネス)がノーベル文学賞を受賞するシーンからこの映画は始まる。反権威主義的な思想の彼は授賞式で、「この賞を受賞したことで自分は作家として没落のフェイズに突入した」などと講演して、場を凍りつかせる。ノーベル賞作家となったことで、彼のもとには世界各地から講演の依頼が舞い込む。そのなかのひとつに、彼の故郷サラスからの手紙があった。いわく、名誉市民賞を彼に授与したいとのことだ。長年ヨーロッパに暮らし、数十年も帰省していなかった彼は郷愁にかられ、サラスへと出向くことにする。
 しかし、愛すべき故郷でダニエルを待ち受けていたのは、文字通り偏狭な田舎の人びとであった。ダニエルの小説に登場する人物を自分の父親だと信じて疑わない青年、サラスで幅を利かせている芸術アカデミーの会員、障がい者である息子のための寄付をねだりにやって来る父親……彼は自分の裡に美化されたサラスとその実情とのギャップに戸惑う。とりわけ、彼を困惑させたのはかつての恋人が自分の親友と結婚していたという事実である。ダニエルとサラス市民との軋轢はしだいに反響・増幅してゆき、破滅的な終局を招くこととなる。
 これはもう、文句無しに面白かった。そもそもアルゼンチンからノーベル文学賞作家が出た、という設定自体が壮大な自虐でもあり、笑いを誘う。けれども、作中のダニエルはいかにも「ノーベル賞作家らしく」描かれており、その演出が実に巧みだ。彼の自宅の書斎や、噺を物語るトーン、サラスの市民に対する姿勢などのディティールが、ちくいち「ノーベル賞作家」らしい雰囲気を醸し出しているのだ。
〈気まずい人間関係〉を描くことに関して、このふたりの監督の腕は比類がない。都市に暮らす人びとの隣人トラブルに焦点がおかれた『ル・コルビュジエの家』と対比されるように、『名誉市民』では因習、あるいは既得権益に凝り固まった地方の人びとが姿が映し出される。そこへ投げ込まれたダニエルはいかにも見せ物のように扱われ、同時に地方の社会秩序を乱す危険因子でもある。おりしも、日本での公開と前後してボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、それに対してバルガス=リョサがこんな発言をしていたこと※もあって、文学賞のありかたそのものにも一石を投じるようなフィルムとなっている。

※件のバルガス=リョサの発言は「来年は(ノーベル文学賞を)サッカー選手にでもやるのか?」という部分だけが恣意的に抜き出されると誤解を招きかねないので、いちおう補足しておく。「ボブ・ディランは自分の好きな歌手のひとりである」と述べたうえで、バルガス=リョサは「現代社会では、政治も文化も、見せ物(スペクタクル)に成り代わってしまっている」と警鐘を鳴らし、ディランの受賞に対して懸念を抱いているのである。

⑥パディ・ブレスナック『VIVA』(キューバ、アイルランド、2015)
 ハバナに住む美容師の青年ヘスス(エクトル・メディナ)は、ドラッグ・クイーンのオーディションに合格し、舞台に立つこととなる。そんな彼のもとに、幼時に生き別れた父親アンヘル(ホルヘ・ペルゴリア)がやって来る。元ボクサーの父は、殺人の罪で投獄されていたのだった。アンヘルがヘススの家に転がり込むかたちで、父と子はぎこちない共同生活を始める。暴力的な父親アンヘルは息子ヘススに娼婦まがいの仕事を辞めさせるが、自分は働きもせず酒浸りの日々を過ごしている。父への反発と思慕の狭間で揺れ動くヘススは、ある日、アンヘルの口から彼が出所した本当の理由を聞かされる……。
 この作品でまず注意を引くのは、親子に与えられたいかにも意味有りげな名前だろう。ヘスス(Jesús)にしてもアンヘル(Ángel)にしても、スペイン語圏では一般的な名前ではあるが、この映画における父と子の名前にキリスト教的なコノテーションが含まれていることは明らかだ。作中では、ベッドに横たわるアンヘルを足下から捉えたショットが確認できるが、これはマンテーニャの『死せるキリスト』をあからさまに彷彿させる。
 一方で、『VIVA』はクイア問題を正面から取り扱ったフィルムでもある。1961年の〈3Pの夜〉以降、キューバでは〈男色〉Pederastas、〈売春婦〉Prostitutas、〈ポン引き〉Proxenetas が厳しく取り締まられるようになり、摘発された者は、名ばかりの更生施設に収容され、強制労働に従事させられた。そうした暗い状況のキューバから生まれてクイア映画の金字塔となったのが、『苺とチョコレート』Fresa y chocolate(キューバ、スペイン、メキシコ、1994)であった。そして、なんと、『苺とチョコレート』にホモセクシャルの男性ディエゴ役として出演したホルヘ・ペルゴリアが、本作『VIVA』ではマチスモの権化ともいうべきボクサー上がりの父親アンヘルを演じているのである。これは配役の妙と言うほかない。
 確かにこの映画では、ホモセクシャルの息子ヘススと、強権的な父親アンヘルの対比が鮮やかに描き出されている。が、特筆すべき点は他にある。この映画が文字通りスポットが当てているのは、ヘススの〈声〉なのだ。ヘススはけばけばしい衣装に身を包み、ドラッグ・クイーンとしてステージに上がる。そこで、彼は楽曲に合わせて口パクのパフォーマンスをするのである。つまり、舞台上でのヘススには自身の〈声〉がない。ここで暗示されてるのは、キューバ革命が生み出した「サバルタンは語ることができるか」という問題である。この場面だけを抜き出せば、ヘススは語るべき〈声〉を持たない存在として映し出されている。
 しかし一方で、ヘススがキャバレーに戻れるよう、父親との離縁を勧める雇用主の提案に対して、彼ははっきりと断りの姿勢を見せ、父親と暮らすことを宣言してもいる。親子の関係において、彼はこの上なく明朗に、自分の意志を語るのである。
『VIVA』はキューバのクイア問題をめぐる最新版レポートであるといってよいだろう。果たして、ヘススは自らの〈声〉で語ることができるようになったのだろうか?

2016年10月25日火曜日

GCIのTTT


 ギジェルモ・カブレラ=インファンテの『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』だ。TPPでもPPAPでもなく。基本的にはメモ書き。

 ギジェルモ・カブレラ=インファンテ Guillermo Cabrera Infante(1929-2005)はキューバ東部ヒバラ生まれの小説家・翻訳家・シネアスト。キューバ革命後の1959年から1961年には機関誌『革命』Revolución の編集として働き、また同誌の週間文芸版『革命の月曜日』Lunes de Revolución を担当した。この期間にも創作活動を続け、1960年、処女短編集『平和のときも戦いのときも』Así en la paz como en la guerra を発表。1962年から1964年にかけて、ベルギーのキューバ大使館に勤める。革命政権と当初は緊密な関係を保っていたものの、しだいにフィデル・カストロの政治方針に幻滅を感じ始める。1965年、母の埋葬のためキューバに帰国し、そこで四ヶ月過ごす。このとき、革命政権との決別を決意。同年、家族とともにマドリードへ移住するも、新聞記者時代の反フランコ的言動が原因でスペイン国内での居住を禁じられる。以降はイギリスで暮らす。1979年、長編小説『亡き王子のためのハバナ』La Habana para un Infante difunto を発表。1997年、セルバンテス賞受賞。

『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』Tres tristes tigres は、1967年の初めに出版された。この作品の原型は、カブレラ=インファンテが1961年に着想を得て、ブリュッセルのキューバ大使館に勤めていた1962年から1964年にかけて(当初は『熱帯の夜明けの景観』Vista del amanecer en el trópico というタイトルで)書いたものである。同年にブレーベ叢書賞を受賞したものの、フランコ政権下の検閲により、三度にわたって出版を拒否される。その後、作品に大幅な手直しを加え(「ジグソーパズル」“Rompecabeza” と「バッハ騒ぎ」“Bachata” はこのとき追加されたもの)、タイトルを変更。1966年、出版の許可が降りるも、22(23)箇所もの削除を余儀なくされた。『TTT』としては1967年、バルセロナのセイクス・バラル社から出版されたものの、作者本人による校閲はなされなかった。そのため、この版には現在流通しているものと比較したときに少なくとも270もの異同があったという。1990年になって初めて、検閲によって削除された箇所を復元した版がベネズエラの出版社から発表された。
 原題はスペイン語の早口言葉〈Tres tristes tigres en un trigal…〉にちなんで付けられたもの。後半部にはヴァリアントがある。また、作者はハバナ市街地の地図を『TTT』の付録とし、出版することを望んでいたという。にもかかわらず、マップ付きの版は長らく出版されず、今回参照した Cabrera Infante, Guillermo, Tres tristes tigres, Madrid, Cátedra, 2010. が初めての地図付きヴァージョンなのだとか。
 あらすじ……を追うのがこれまた難しい。舞台は1958年、革命直前のハバナ。主なプロットは:
  • カメラマン〈コダック〉と歌手〈ラ・エストレージャ〉の話(「彼女の歌ったボレロ」)
  • パーカッション奏者〈エリボー〉とビビアンの恋愛(「セッセエリボー」)
  • アルセニオ・クエとシルベストレのドライブ(「バッハ騒ぎ」)

上記に加えて、〈女性歌手キューバ・ベネガスがスターダムにのし上がるまで〉、〈精神科医の診察を受けるラウラ・ディアス〉、〈キャンベル夫妻のハバナ訪問(というフィクション)〉、〈クエの見た不穏な夢〉、〈ブストロフェドンの死〉などのエピソードが挿入されている。〈トロツキーの死〉は、七名のキューバ人作家(ホセ・マルティ、ホセ・レサマ=リマ、ビルヒリオ・ピニェーラ、リディア・カブレラ、リノ・ノバス、アレホ・カルペンティエル、ニコラス・ギジェン)の筆致を真似て書かれた架空の文章である。これに近いことをソローキンが『青い脂』でやっている。

この作品においては主人公と呼ぶべき登場人物が存在しない。また、物語を貫くひとつの筋らしきものもない。Brushwoodは「トロツキーの死」(『熱帯』では書かれなかった部分)などは物語の筋に何ら影響を与えないため、「読み捨て可能」な文章であると指摘し、コルタサル『石蹴り遊び』との比較を試みている。けれども、「コルタサルと異なるのが、カブレラ=インファンテは読み方の指定をしていないという点である。その意味で彼の作品は『石蹴り遊び』よりも読者に対して開かれており、読者は全てを自分自身で行わなければならない」とも述べており、これはなかなか面白い指摘ではないかと思う。

能動的読者、という視座から『TTT』を考えるとき、

革命直前のハバナにおける多言語環境
書き言葉/話し言葉

というふたつの点を指摘できるのではないだろうか。冒頭の部分を覗いてみよう。


少なくとも、スペイン語、英語、フランス語(らしきもの)でこのテクストが書かれていることが分かる。さらに別のページではポルトガル語の記述も確認できる。これが①。革命前夜のキューバがいかに多言語的環境にあったか。そして、鉛筆で記したあたりの、Merscí bocú Comoustedesvieron... などでは口語的に文章が転写されている。これが②である。ここから、読者に多言語間の切り替え(スペイン語、英語、フランス語…)を強いるのみならず、口語/文語間のスイッチをも迫る、実に能動的な読みを要求するテクストであるかが分かるのではないだろうか。



 カブレラ=インファンテは翻訳家としても活躍していた。『TTT』が外国語へと翻訳される際には、大幅に変更が加えられて、英語、フランス語、イタリア語への翻訳にはカブレラ=インファンテ自身も参加している。また、自らの作品の自己翻訳も行った(『煙に巻かれて』など)。1972年には、ジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』をスペイン語に翻訳している。



 さらに、リライトの問題について。フランコ政権下の校閲による削除は22箇所であったと考えられていたが、実際には23箇所であったことが後に発覚した。これは作者自らが、当該箇所の復元を却下したことによる。つまり、結果的には検閲が作品の校閲を手助けしたというのだから、皮肉だ。

削除箇所の例としては:「彼がモノを出すのを見ると、[…]男はこうやって足を組みかえながらモノをしまうの」(19)、「軍人」(238)、「神殺し」(268)などがある。卑猥な表現、宗教、軍部にまつわる表現が削除された。また、1970年の手紙では、ラ・エストレージャの死体の行方に関する「メタ・ファイナル」“Meta-final” という章の存在を作者自ら明かしている。



 シネアストとしてのGCI。1963年、G. Caínのペンネームで映画評論集『二十世紀の仕事』Un oficio del siglo XX を出版している。ここにはアルフレッド・ヒッチコックなどの作品を扱った評論の他、作者のアルター・エゴとも呼べる人物の架空の伝記などが収められている。『ワンダーウォール』(1968)、『バニシング・ポイント』(1971)、『火山のもとで』(1984)[この脚本による映画化は実現せず]、『ロスト・シティ』(2005)などの脚本も手がけている。



 また、GCIを亡命作家として論じることも可能だろう。Brushwoodによれば、この作品の中心的主題となっているものは〈懐疑的ノスタルジー〉である。確かに1965年にキューバを去って以来、二度と祖国の土を踏むことのなかったカブレラ=インファンテの作品には革命以前のユートピア的なハバナが描かれているとも言える。晩年は『煙に巻かれて』(1985)など、英語での創作も行ったことからナボコフとの比較も面白いかもしれない。なお、亡命後はキューバ国内で自作が出版されることをGCI自身が許可しなかった。

 下線を引いた部分は〈都市小説〉という文脈で論じられそうなところ。『TTT』の風景描写には不思議なところがある。例えば、「バッハ騒ぎ」では「サン・ラザロ通りを走り始めた」(368)など、具体的な地名は出てくるが、風景の描かれ方はどこか均質的でもある。「ハバナにいて、建物の間から海が見える」などという描写は「東京にいて、高いビルがたくさん見える」のと同じくらい土地感のない表現で、ほとんど何も言っていないのに等しい。こうした描写はむしろ、クエとシルベストレの言葉遊びを成立させるためだけに存在している舞台装置のようでもある。こう考えると、「しばらく僕たちは、クエのお気に入りテーマである都会について話していたが、人が街を作るのではなく、街が人を作るのだと言い張る彼は[…]」(358)のような記述はどこか意味有りげだ。



 いろいろとまとまりのない文章を書いてしまったが、まあ、普通に読んでも楽しい作品である。具体的には:


先生、「セイシンカ」ってどう書くんですか、「精神科」ですか、「清心科」ですか?(197)
それに俺は、プルースト(「プルッ」としか聞こえない)もジェイムス・ジョイス(彼の発音ではどう聞いてもシェイム・チョイスだ)もカフカも(この名前だけはきちんと発音している)も別に評価していない。この三位一体を崇めることなしに二十世紀の小説は書けないのだろう? 二十一世紀に俺が何か書ければ話は別だが。(391)

ヒトラーを憎んだところで意味はない。彼が殺した人の大半はどのみち今頃死んでいるのだから。それより、国連に乗り込んででも告訴すべき大虐殺の犯人は「時間」だろう。(391, 392)



この、あらゆるものを馬鹿にしくさる感じが実に面白いと思うのだが、どうだろう?



文献一覧:
カブレラ=インファンテ、ギジェルモ『TTT トラのトリオのトラウマトロジー』寺尾隆吉訳、現代企画室、2014
Cabrera Infante, Guillermo, Tres tristes tigres, Madrid, Cátedra, 2010.

Brushwood, John Stubbs, La novela hispanoamericana del siglo XX: una vista panorámica, trad. de Raymond L. Williams, México, Fondo de cultura económica, 1984.

2016年10月21日金曜日

厄介なX



 カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』寺尾隆吉訳(現代企画室、2012)についてのある発表を聞いた。1958年にフエンテスが発表した初の長編で、ラテンアメリカ文学〈ブーム〉の火付け役ともなった作品だ。要約するとなるとずいぶん大義そうなので、あらすじは割愛。

 訳者があとがきで触れているように、メキシコ都市小説の原点となった小説でもある。舞台は、1950年前後のメキシコ・シティ。ミゲル・アレマン政権下で未曾有の発展を遂げ、メキシコ・シティが大都市へと変貌する過渡期だ。同時期を扱った作品としては、ホセ・エミリオ・パチェーコ『砂漠の闘い』(1981)、ルイス・ブニュエル『忘れられた人々』(1950)などがある。半世紀以上も前の小説ながら、ベジャス・アルテス宮殿や、タイル張り(azulejo)のサンボンス、タクーバ通りのカフェ(カフェ・デ・タクーバか?)など、シティっ子(chilango)が聞けばいまだにピンとくる場所もたびたび登場する。

 重層的に反響するおびただしい数の声と、不気味な存在のイスカ・シエンフエゴス。小説の描き方だけみれば、フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』によく似ているのかもしれない。両作品の決定的な違いは『ペドロ・パラモ』で描かれたのが地方であったのに対し、『澄みわたる大地』の舞台が都市であるという点だろう。前者ではコマラという辺境に君臨する圧倒的なカウディージョ、ペドロ・パラモが、そして後者では急速に発展するメガロポリスで成り上がったフェデリコ・ロブレスが権力の象徴として描かれている。生身の人間の怖さというものにスポットを当てれば、前者のそれが因習にがんじがらめにされた村社会の人間関係だとすれば、後者のそれはすぐ隣に素性の不明な他人が住んでいる、という隣人恐怖である。

 発表者によると、メイン・キャラクターであるイスカ・シエンフエゴスはIxca Cienfuegoosと綴るのだそう。この作品の翻訳で気になったのが、Xの付く固有名詞だ。Xochimilcoが「チョチミルコ」と訳されていたり(ただし、二度目以降は「ソチミルコ」となっている)、Mixcoacが「ミクスコアック」となっていたり(ぼくの認識では「ミスコアック」なのだが)、ところどころで首を傾げた。無論、誤訳というわけではなく発音には個人差があるので、日本語で正式にはこう綴る、というものはない。

 スペイン語のXは厄介だ。これには、もともとラテン語で[ks]と発音されていたものが、スペイン語で[sh]に変わり、さらに時を経て[x]に落ち着いたという経緯がある。しかし、発音が[x]までたどり着くと、今度は別の問題が浮上してくる。Jも発音上は同じ[x]なのだ。同じ発音なのに、表記が2種類もあるとややこしくて仕方がない。というわけで、[x]の音はJに担わせることにし、原則的に[x]音のXは使われなくなった……のだそう。

つまり、Don Quixoteはもともと「ドン・キショーテ」だったのであり、そのあと音が「キホーテ」になって、さらに同じ音のまま表記はDon Quijoteになったというわけである。現在、固有名詞を除いて、Xは基本的に[s]と発音される。が、これも人によっては[ks]だったり[sh]だったりする……。

Xochimilcoの場合、もともとのナワトル語で[sh]に近い音で発音されていたことからXがつけられたはいいものの、征服言語のスペイン語からXの[sh]音が消滅していくにつれ、[s]の音に変化したのだそう(本当だろうか?)。ちなみに頭のXochiは「花」という意味。人形島があることでも有名。この島の所有者が人形を吊るし始めたのが1950年代らしいので、『澄みわたる大地』で扱われているのと同じころだろうか?

とかく、こういった先住民言語に由来するXの発音は至極ややこしく、メキシコではXだけで確か6種類くらいの違った読み方があるのだ。手許にあるナワトル語辞典を引いても、発音記号までは載っていないので、こればかりは耳に頼る他ないのか?



 ちなみに、ぼくがメキシコで教わっていた先生はAxolotlを「アホロートル」ではなく、「アショロ—トル」と発音していた。コルタサルの短篇に同じ名前のものがあるが、邦題は「山椒魚」。なんのことはない、ウーパールーパーだ。あるいは「メキシコオオサンショウウオ」だ。Axolotlの読み方、ぼくは断然「アショロ—トル」派だ。だって、あんなアホ面で、名前が「アホロートル」なんてあんまりではないか……。



2016年10月15日土曜日

ラテンビート映画祭 / LBFF(前半)


①波多野哲朗『サルサとチャンプルー』(2007、日本)
 グルメ映画ではない。このドキュメンタリーは沖縄とキューバの歴史的・文化的類似性を指摘することから始まる。公式HPの紹介にもあるように、「スペイン・アフリカ・アメリカの文化が混合したキューバと、中国・日本・琉球、そして戦後のアメリカ占領下での文化が混ざりあった沖縄」が有するクレオール性。そして、大陸から切り離された地域であるがゆえの周縁性、あるいは「南」であるということ。ふたつの島には少なからぬ共通項を見出すことができる。
 昭和初期、沖縄からキューバへと移り住んだ人びとがいた。作中では沖縄移民一世の最後のふたり、島津三一郎さんと宮沢カヲルさんが当時の様子を、時に歌いながら、時に目を伏せながら語っている。現在ではお二人とも亡くなっている。
 イスラ・デ・ラ・フベントゥ Isla de la juventud はキューバ島の南西に浮かぶ小さな島である。スティーヴンソン『宝島』のモデルになったとも言われるこの島に、沖縄移民たちはコミュニティを作った。支配者の交代に伴い、幾度となく名称が変化してきたこの島は移民たちがやってきた頃、イスラ・デ・ピーノス Isla de pinos という名前であった。その名残から、彼らはいまだにこの島を「松島」と呼んでいる。
 この島にはプレシディオ・モデーロ刑務所という典型的なパノプティコンがある。現在は廃墟と化しているこの建物は、バティスタ政権下で政治犯の監獄として機能していた。囚人たちの中には若かりしころのフィデル・カストロもいた。第二次世界大戦中には、この円形刑務所の別棟にドイツ人や日本人が収容された。日系移民たちも例外ではなく、キューバの参戦から終戦までの約3年間、ここに入れられて強制労働をさせられていたのだと言う。
 キューバの歴史の本質はディアスポラにあると言えるのかもしれない。原住民が征服者たちによって駆逐されたのち、アフリカからは黒人奴隷が大量に連れてこられ、独立後は息を吐く暇もなく宗主国がスペインからアメリカ合衆国に取って代わった。キューバという国の構成物は決してとどまることなく、流れ続けてきたのだ。そして、20世紀の初頭になるとこのストリームに接続される支流としての日系移民がやってくる。このドキュメンタリーが焦点をあてているのはまさにこの部分である。このようなめまぐるしい変化を考えれば、上記で語られるような暗い歴史は混淆物の氾濫の帰結として、むしろ必然的なものに思える。しかしながら、映像で見るキューバの人びとと沖縄移民たちの語りには常にリズムと身体の動きが伴っており、それを目の前にした観客は憂いを忘れるほどに圧倒されてしまう。悲しいのやら楽しいのやら、何が入ってるのか分からないんだけれども、なんだか素敵な味がする、まさしく「サルサとチャンプルー」といった感じの映画だ。

②アンドレス・フェリペ・ソラーノ『ホワイト・フラミンゴ』
 コロンビア出身で、現在は韓国在住の作家アンドレス・フェリペ・ソラーノがLBFFのために書き下ろした短篇を戯曲化したもの。朗読劇のかたちで宮菜穂子さんと榊原広己さんが演じた。当日のティーチインでは、この短篇が生まれた裏話なども話題にのぼった。
 マフィアの構成員であるドゥケは、組織のボスに命じられてマイアミへとやってきた。彼を裏切り逃亡したかつての相棒ハイロを始末するためである。ふたりはホテル〈ホワイト・フラミンゴ〉で再会するも、ハイロは性転換手術を受け女性になっており、いまはマリエラと名乗っていた。ふたりの過去が対話、あるいは傍白のかたちで語られる。あてどもない会話が続き、マリエラは彼女がいま生業としているブランド腕時計を売りさばく仕事を手伝うようドゥケに持ちかける。ドゥケは返事をせず、席を立つ。舞台は暗転し、銃声が鳴り響く。
 この作品における登場人物たちには様々な面での揺らぎがある。ドゥケの本名はリバルドであるが、ホテルの予約にはアルフォンソというまた別の偽名を使っている。一方でかつてのハイロも改名しており、現在はマリエラと名乗っている。そればかりか性別すらもが変わってしまっているのだ。さらに、ドゥケは組織のボスの命令に従ってマリエラを殺すべきか否かで逡巡しているし、マリエラもおそらくはそのことを知りつつも、つまり自らの生命を危険に晒しながらもドゥケに接触してしまう。こうした自己同一性の不確かさ、理性と衝動のせめぎ合いとでも呼ぶべき要素が、不思議な空気を醸し出している。彼らはあくまで感覚的に話をしているのだけれども、「古くてベトベトした紙幣は人に罪悪感を抱かせる」、「権力を誇示したい人間は腕時計に狂う、なぜなら書類にサインするふりをして控えめに己の力をみせつけることができるから」などの論理には妙に説得力があって、納得してしまう。
 縁あってこの戯曲の翻訳をお手伝いしたので、話の筋は事前に知っていた。しかしながら、曖昧模糊としていた人物像が実際に演じられ、血と肉を備えた存在として目の前に現れると、当たり前だが全く違った印象になる。最前列の観客から手が届くような距離で演じられたこともあり、普通の劇以上に臨場感があったのではないかと思う。これは余談になるけれども、あとから聞いた話では最後の場面はギリギリになって変更が加えられたのだとか。最終的に銃弾は暗転後に発射されるという演出になっており、これは誰に向けて発砲されたのかが分からないようにするため、とのこと。

③イシアル・ボジャイン『THE OLIVE TREE』(2016、スペイン)
 イシアル・ボジャイン監督はビクトル・エリセ『エル・スール』でエストレージャ役を演じた人物なのだと教えてもらった。そんな彼女が、スペインのテレビドラマで人気を集めている女優アナ・カスティージョを主演に抜擢し、撮影した映画がこれだ。
 主人公アルマの家には先祖代々受け継がれてきた大きなオリーヴの樹があった。アルマの祖父はそれを大切に育ててきたのだが、家計が逼迫してきたことを理由に、オリーヴの樹は息子たち(アルマにとっての父親と叔父)によって売られてしまう。以来、祖父は見るからに衰弱し、半ば認知症のようになってしまう。そんな祖父を元気づけようとアルマは樹を取り戻すことを決意し、売却先であるドイツに向かう……というのがあらすじ。
 この映画『THE OLIVE TREE』の前半部には、オリーヴの売却をめぐって祖父と父親が言い争っているのを見つめているアルマの姿がある。スペイン語圏の映画では、大人たちの不和(それは恋愛関係をこじらせてしまった夫婦の軋轢だったり、政治的弾圧に対する道義心からくるものだったりするのだけれど)と、それを覗き見する、あるいは盗み聞きする子どもという構図が頻繁に現れる……ような気がする。上に挙げた『エル・スール』もそうだが、ホセ・ルイス・クエルダ『蝶の舌』やダニエル・ブスタマンテ『瞳は静かに』などでも同様の視点が効果的に用いられている。ジュリー・ガヴラス『ぜんぶ、フィデルのせい』はフランスの映画だが、ここでは父親がチリのサルバドール・アジェンデによる社会主義政権に同調したことがきっかけで、親と子のあいだに葛藤が生じてしまう。このような政治が絡んだ複雑な問題も、子どもの目線から捉え直すと、単純に「ぜんぶ、フィデルのせい」になってしまうというわけで、そこがおもしろいところ。何もこうした視点の導入はスペイン・ラテンアメリカ映画の専売特許というわけではなく、(トリュフォーの『大人は判ってくれない』や小津安二郎『生まれてはみたけれど』などを思い出せば容易に確認できるように)どこの国でも、そしていつの時代でも至極普遍的に扱われる主題である。けれども、スペイン語圏の映画の場合は政治にコミットする内容のものが多いこともあってか、こうした操作が顕著で、印象的だ。
 また、あらすじだけみればハート・ウォーミングな映画に思えるかもしれないが、スペイン人であるアルマの叔父がドイツ人に対して劣等感を感じていたり(そもそもオリーヴの樹が売却されたのもドイツのエネルギー会社であるのだが)、樹を取り戻すための資金集めにSNSが駆使されていたりと、昨今のEUや若者の世相を反映していてなかなか社会派なフィルムなのだ。ティーチインの様子がこちら

2016年9月26日月曜日

"Jealousy" de William Faulkner, une analyse a la Roland Barthes


 ウィリアム・フォークナー William Faulkner(1897-1962)は、20世紀のアメリカ文学を代表する作家である。長編小説には『響きと怒り』The Sound and the Fury(1929)や『サンクチュアリ』Sanctuary(1931)、『アブサロム、アブサロム!』Absalom, Absalom!(1936)などがある。南部の黒人世界や暴力の発露を、「意識の流れ」と呼ばれる実験的な手法で描き出した。フォークナーの作品ではしばしばヨクナパトーファという架空の土地が舞台に設定されており、それらの小説群はヨクナパトーファ・サーガの総称で呼ばれることもある。また、「エミリーにバラを」"A Rose for Emily"のようなゴシック色の強い作品も多数残している。1949年にはノーベル文学賞を受賞した。
 短篇「嫉妬」"Jealousy" は、1925年に書かれた初期の作品である。後に短篇集『ニューオリンズ・スケッチ』New Orleans Sketches(1955)に収録された。「嫉妬」には主要な登場人物が3人いる。まず、アントーニオと妻。ふたりは飲食店を経営しているが、夫婦仲は上手くいっていないようで、冒頭でも客がみているのも憚らず口喧嘩をしている。もうひとりの登場人物はこの飲食店で働く若いボーイである。アントーニオは妻とボーイの関係を怪しんでいた。ある日、アントーニオはボーイを呼び出して真相を問いつめる。ボーイは妻との関係を否定するが、アントーニオは納得せず、話し合いはもみ合いになって終わる。アントーニオと妻は、新たな町へと引っ越して、そこで心機一転やり直すことを決める。飲食店はボーイが譲り受けることとなった。出発が間近に迫ったある日、ボーイはアントーニオの妻に餞別を贈りたいと申し出る。ボーイとアントーニオは連れ立って骨董品へと出かけていく。ボーイが商品を物色している間に、アントーニオは店内で小型のピストルをみつける。アントーニオは彼に背を向けていたボーイに向けて発砲し、射殺する。

1.行為のコード
 この短篇は主人公の妻が編物をしている場面から始まる。夫アントーニオは苛立った様子で「また編物かね?」Knitting again, eh? と尋ね、妻は顔をあげる。まなざしに関連する行為は以下のように続く。妻がボーイを見る(「女はおつりを出すと、ボーイをちらっと見やった」)、ボーイがアントーニオを見る(「ボーイは彼女の夫の顔をのぞくように見て」)、妻がアントーニオを見る(「彼の妻は頭をあげ、冷たい眼で夫のようすをながめた」)、妻がまわりの客を見まわす(「彼女はすばやくあたりを見まわした」)、まわりの客が怒るアントーニオを見る(「シッ! みんな見ていますよ」)、アントーニオが辺りを見渡す(「その視線はテーブルからテーブルへとさまよい」)、ボーイが辺りを見渡し、妻を見る(「青年の視線が部屋をずっと走って、しばし彼女の夫君の顔の上におちた」)、妻がアントーニオを見る(「女は頭をもちあげ、夫の眼をじっとまともに見すえた」)、アントーニオが星空を見上げる(「ひろがった星空をじっと見つめ」)、商品を眺めているボーイにアントーニオがピストルでねらいをさだめる(「いまは無心で物をながめている男にねらいをさだめ」)。「嫉妬」において、アントーニオはつねに視線を向けられる側の存在であり、彼自身がまなざしを他者に向ける場面はほとんどない。アントーニオの視線が星空を除いてはどこにも向けられていないことはきわめて重要である。
 また、唯一その例外といえるのが、アントーニオが商品を物色しているボーイを後ろから撃ち殺すクライマックスの場面である。アントーニオが「殺してやるぞ!」と恫喝すると、ボーイは「うしろからでもかからないかぎり、あなたにはそんな勇気はなさそうですね」と返す。その直後、アントーニオは「そうだ、おれには勇気がないのだ!」「自分自身にも自分の妻にも面とむかうことのできないのがよくわかっていた」と独白する。以上のような段階を踏んで、まなざしを向ける行為は次第に暗示的な意味合いを帯びるとともに緊張の度合いを増し、結びのアントーニオがピストルで照準をさだめるシーンへと収束するのである。

2.含意のコード(コノテーションのコード)
 先に述べたように、「嫉妬」の冒頭では妻が編物をしている。これは極めて女性的な作業といえるが、アントーニオの妻はなぜ、誰のために編物をしているのだろうか。彼女は以前「ちっちゃな赤い部屋」little red room で編物をしていたという。この部屋の表現は子宮を暗示しているとも考えられる。こうした示唆的な描写からは出産をひかえた女性が、赤ん坊のために編物をしている姿が連想できるが、ふたりには子どもがいない。このことが夫婦の不和に繋がっているとすれば、どちらかの生殖能力に欠陥があるためではないか。さらに「年百日中」編物をしているとアントーニオに揶揄される妻は、『オデュッセイア』のペーネロペイアをも彷彿とさせる。『オデュッセイア』では、夫が不在の間に求婚されたペーネロペイアは返答を先延ばしにするため、編んでは解きを繰り返している。「嫉妬」における求婚者とはボーイである。このように、編物をめぐる描写には夫アントーニオとの不和、そしてボーイとの密通という不穏な事件が暗示されている。

3.文化のコード
 作中で言明はされないが、「ええ、あなた(ルビ:カロ・ミオ)」Caro mioや、「ねえ、トーノ(ルビ:トーノ・ミオ)」Tono mioなどのアントーニオと妻が交わす台詞からは、ふたりがイタリア系の移民であろうことが分かる。そもそも、アントーニオという名前自体がイタリア系の出自であることを表しているし、彼がかつてのシシリー島での暮らしに思いを馳せるシーンも作中で確認できる。物語の舞台がどこであるかは明されていないが、イタリア系移民は19世紀の終りごろから本格的にアメリカ合衆国へと移住してきた。彼らの多くは出稼ぎ労働者として北米へやってきたが、定住を余儀なくされるケースも少なくなかったという。当時のイタリア系移民は他の白人に比べて収入が少なかったとも言われている。こうした文化的背景からは、アントーニオとその妻が社会的ヒエラルキーの下部に位置しており、疎外感を感じているであろうことが推測できる。事実、アントーニオは半ば精神病に侵されている。彼が妻に新しい町へと移ることを提案しても、彼女はそれに反対しない。「嫉妬」では、アントーニオとその妻を通じてアメリカ合衆国におけるイタリア系移民の姿が描き出されている。

4.象徴のコード
 アントーニオとボーイは極めて対照的に描かれている。「背が高くて、若いローマの神さまみたいに美男」で「上背のある」「しなやかで上品なからだつき」のボーイと、「ずんぐりと肥満した」「どっしりとした図体をしている」「中年」で「ふとった醜い男」であるアントーニオ。これが「嫉妬」における第一義的な対立である。こうした肉体的な描写のみならず、ふたりは態度のうえでも比較することが可能である。笑顔を浮かべて「すばやく、手ぎわよく動きまわり、親切に、能率的にたち働いてい」るボーイと「見知らぬ客には卑屈な外面を装った尊大な態度で対応したり」、「そっけないことばで返答したり」するアントーニオ。こうした象徴からは、好感をもって社会的に受け入れられているボーイと疎外されているアントーニオという構図がみいだせる。さらに妻とアントーニオに関しても「まだ若く」美しい妻と、老齢にさしかかりつつあるアントーニオという対象が明示されている。つまりここではボーイ⇔アントーニオと妻⇔アントーニオというふたつの項が反目している。
 こうした対立は容易に発見できるだろう。しかしここで、色という視点に着目するとアントーニオは明らかに赤を象徴している(「憤りのために頬を真っ赤にして」、「とつぜん細い真っ赤な血の筋が、指のあいだから手の甲ににかけて走った」)。一方で、アントーニオの妻は黒を象徴しているものと思われる(「彼女の浅黒い卵型の顔」、「漆黒の髪の毛」、「黒いくろいあの髪の毛」)ものの、先に引用した「ちっちゃな赤い部屋」や「その赤い口もと」といった描写もみられる。ふたりは赤と黒という対立する色を象徴しながらも、夫婦としてくらしている以上ある程度の赤を共有している。ボーイは明らかに白を象徴している(「その眼には白い、皮肉な微笑がひらめいた」「顔にうかんだ、白い、意味のない微笑」)。赤と白は混じりあわない。ところが驚くべきは後半部にあらわれる描写である。ボーイの「白い、不気味な彼の笑いはこれまでと変りがなかったが、その浅黒い顔にチカッと光る歯が、なぜか相手の憤りをさそう力を持っており、自分ではすでに眠ってしまったと思っていた以前の怒りと恐れの念をふたたびかきたてるのだった」。いままで白一辺倒で表象されてきたボーイに、ここで突然黒が入り込む。と同時にアントーニオの心にふたたび嫉妬の炎が燃え上がるのである。つまり、ここでアントーニオは妻の誇るべき黒色をボーイのなかにも発見し、ふたりが共謀している可能性に気づくのである。そして、アントーニオは最後に「赤い炎の一閃」でボーイを撃ち殺し、真っ赤な血で彼を染め上げるのであった。色を媒介とする三者の対立が「嫉妬」では鮮やかに描き出されている。

5.謎のコード(解釈関係のコード)
 簡潔な筆致で書かれ文量も多くない「嫉妬」には、それほど謎のコードが用いられているわけではない。とはいえ、この短篇を読み始めた読者の頭を真っ先によぎるのは、タイトルとして採用されている「嫉妬」”Jealousy”の謎であろう。誰から誰に向けられた「嫉妬」なのか。物語の筋からして、これは当然アントーニオからボーイへと向けられた嫉妬であると推測できる。ところが、物語の終りに至って新たな謎が浮かびあがってくる。
 アントーニオと妻は新しい町へと移り、心機一転そこでやり直すことを決める。ボーイはアントーニオと一緒に、彼の妻への餞別を選びにいく。そこで、アントーニオは突然ボーイを背後から撃ち殺してしまうのである。「あしたになれば、自分はどこかよその土地に去ってゆき、おそらくふたたび、この男を見ることもないだろう」と自分に言い聞かせているにもかかわらず、なぜアントーニオはボーイを撃ったのだろうか。理由はいくつか考えられるだろう。まず、アントーニオが精神衰弱に陥っていたという理由。このことは作中でも明らかにされている。また、ボーイが妻に贈り物をし、それが新居に持ち込まれるのをアントーニオが拒んだのだとも考えられる。しかし、この場合はボーイの申し出を断ればよいだけの話であって、何も撃ち殺す必要はないだろう。結局、アントーニオがボーイを撃ち殺した理由は分からないまま、物語は終わってしまう。この謎の解釈は読者に委ねられているのである。

文献:
バルト、ロラン、1973、『S/Z バルザック「サラジーヌ」の構造分析』、沢崎浩平訳(みすず書房)
フォークナー、ウィリアム、2013、「嫉妬」『フォークナー短編集』、瀧口直太朗訳(新潮社)


2016年6月30日木曜日

活弁上映のアウラ


フリッツ・ラング『メトロポリス』(1926、ドイツ)の活弁上映@シネマート新宿を観てきた。1920年代、電燈に明かりが灯ったばかりのドイツで上映された映画を、その90年後、「不夜城」新宿で観るというのもなかなか可笑しい。2時間近くにおよんで途切れることなく声(七色の声? それ以上だ)をあて続ける活動写真弁士の佐々木亜希望子さんももちろんすごかったが、音楽を担当していたピアニストの永田雅代さんの演奏もこれまた名人芸だった。本来はサイレント映画なのだということを上映中に一度ならず忘れるほどだった。7月にはアルフレド・ヒッチコック『マンクスマン』の活弁上映もやるらしい。

活動写真弁士の語りを始めて聞いたのは、「キューバの映画ポスター」展@東京国立近代美術館フィルムセンターを観に行ったときのこと。そこの常設展で、活動弁士の声が入ったフィルムを流していたのだった。目当てのキューバ映画ポスターの特別展もなかなかおもしろかったのだが(ジミ・ヘンドリックスのアルバムのごときビビッドな色合いの『白鯨』のポスターには眼を奪われたし、『低開発の記憶』のポスターがカルロス・サウラの兄、アントニオ・サウラの手によるものだったことなどは新事実だった)、こちらの常設展も引けをとらないものだった。溝口健二のデスマスクや、『カチューシャ』と題されて上映されたトルストイ『復活』の当時のポスター(これには「露國文豪トルストイ翁原作」との文字が添えられており、上映は驚くべきことに1913年。日露戦争の直後だ)などは一見の価値があるのではなかろうか。

また、今回の『メトロポリス』の直前に、「複製技術と芸術家たち――ピカソからウォーホルまで」@横浜美術館にも足を運んでいたものだから、活弁上映を「アウラの再獲得」という文脈でとらえてしまうのも仕方がない。実際、弁士の方も会場の雰囲気に合わせてアドリブで台詞を入れるなどしており、あれは観客と作品のまさに仲介者ともいうべき絶妙な存在だったように思う。横浜の展示は、あたかもベンヤミンのテクストをなぞるように時代を進んでいくものだった。ピカソのリトグラフからはじまり、マティスの切り絵、エル・リシツキーの『プロウン』、エルンストのコラージュ、デュシャンのレディ・メイド、そしてリキテンシュタインと展示品は並び、中盤辺りから「やっぱり抽象芸術はキツいな……」と帰りたくなっていたのだけれど、最後のウォーホルの作品に添えられた「広告とは、複製芸術にアウラがあるかのようにみせかけることである」(うろ覚え)という一文にはどこかはっとさせられるものがあった。


と、『メトロポリス』を機に思い出された展示会をいろいろと書き並べてみた。「間展示性」などとでも呼べるのだろうか?


2016年5月20日金曜日

ガボの足跡を辿る


初夏の香りが漂い始めると、どうしても彼のことを思い出してしまう。それはたぶん、シャツが汗ばみだす季節に彼は生まれ、そして死んだのだという意識がぼくにあるからだろう。
映画『GABO〜ガルシア=マルケスの生涯〜』(2015、スペイン)を青山学院アスタジオで観てきた。会場で配られた抽選券の裏面には『生きて、語り伝える』の一節がプリントされていて、素敵だ。生地アラカタカに始まり、『予告された殺人の記録』の舞台ともなったスクレ、学生生活を過ごしたボゴタ、『大佐に手紙は来ない』のような極貧生活を送ったパリ、『プレンサ・ラティーナ』の記者として赴いたニューヨーク、『百年の孤独』の語りを思いついたというメキシコシティ、後の「プニェタソ」事件で袂を分かつこととなるバルガス=リョサと親交を深めたバルセロナと、ガボの移動の足跡を作家フアン・ガブリエル・バスケスが辿ったドキュメンタリー風の映画だ。それと平行する形で、ガボをよく知るひとたちによる証言と作品の朗読がインサートされている。彼との思い出を語るのは、弟のハイメ、妹アイーダのほか、ガボの伝記の作者ジェラルド・マ—ティンや盟友プリニオ・アプレーヨ・メンドーサ、エージェントとして〈ブーム〉の作家を支えたカルメン・バルセルス、元アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンなどだ。若い頃ガルシア=マルケスと半同棲生活を送っていたという女優タチ・キンタナの回想などは貴重だと思うし、ガボが当時大統領だったクリントンにキューバへの経済封鎖解除を進言していたという事実はあまり知られていないのではないだろうか。小説家としてだけでなく、ガブリエル・ガルシア=マルケスの記者としての側面を強調し、それをパブロ・エスコバール時代のコロンビア麻薬戦争問題を主題とする作品『誘拐の知らせ』に繋げる流れもよかった。
しかしなんといってもこの映画の見どころは、ガボのユーモアあふれる発言と彼にまつわる逸話だろう。枚挙にいとまがないので詳述は控えるが、全編にわたって冴え渡る「ガボ」節は、なんだか観ていてとても心地好かった。