先生がぼくの住む街を訪れる、という知らせを受け取ったのは丁度一週間前のことだった。ちょっとした用事があるので、少し会わないか、君の下宿先の目の前の路地で待ち合わせよう、と手紙には書いてあった。約束の時間に路地に出ると、先生がいた。少なくともぼくがここに越してきて以来、路地に違法駐車されたままの60年代風の真っ赤な自動車に先生は背を預けていた。砂ぼこりの中、長年眠り込んでいた車体の光沢は、とうの昔にこの街に奪われていた。黒服に山高帽を被った先生は相変わらずのギョロ目と痩身で、ぼんやりとパイプを吹かしていた。
「ご無沙汰しております」
「久方ぶりだね。どうだい、調子は。この街で暮らす君の身は案じてもいたのだけれど、いかんせん暇がなくてね。ついつい手紙もサボりがちになって、すまなかった」
「相変わらず、よく解らないことをしてはよく解らない人たちに怒られてる夢を見ています」
「そうかい。息災ならそれでいい」と先生はそっけなく言った。
先生の見た目は、ずいぶんと若く見えた。先生は都市に住むことを許された人間だから、いつまでも溌剌としていられるのだろうか。この砂漠の街で暮らしていると、時々自分の年齢が解らなくなる。みな、服や紙に砂塵が付くのを厭ってほとんど外出をしないので、他人と顔を合わせることも稀である。かくいうぼくもどれくらいぶりに下宿から出たか定かではない。息災なことには違いないが、誰もが死んでいるように生きているのだ。
「それにしても、久しぶりだ。君に会うのもそうだが、この街に来たのは実に20年ぶりだよ。まあ、立ち話もなんだ、早いところ僕の方の用事を済ましてしまって、飯でも食おうじゃないか。付き合ってくれるかな?」
「勿論です」
「じゃ、行こうか」
そう言うと、先生は上着のポケットからジャラジャラと音を立てながら鍵束を取り出した。先生はその中の一つを迷いなく選んで、自動車の鍵穴を回した。
「これ、先生の車だったんですか? ずいぶん前から、ここにありましたけど」ぼくは思わず尋ねた。
「20年前からここに停めてあるよ。ぼくがまだ学生で、この街に住んでいたころ、友人と金を出し合って買ったんだ。ジャンク品だったから、買った状態ではほとんど動かなかったのだけど、どうにか修理してね。その時、ついでに色も塗ったんだ。もとは透き通るような水色だった」
「20年も。よく撤去されなかったですね」
「されないさ。この街では変わろうとしないものはいつまで経っても変わらないんだ。まあ、砂まみれになってはいるけど。さあ、乗って」
先生に促されて、後部座席に乗り込んだ。ドアを開けたとたんに、車の内部に潜り込んでいた砂が久しぶりの外気に触れてつかの間、騒ぎを起こした。砂を払ってどうにか一人分の座席を確保して腰掛けると、つま先に何かが触れた。拾い上げてみると、それは一冊の本であった。表紙も背表紙も炭化してしまっていて、題名は判読できなかった。ぼくはそれをトランクに放り投げた。
「ところで、今日はどちらに?」と訊くと、
「ある工場に行くんだ。ある本をこの世から消そうと思って」と先生は振り向かずに答えた。
車は故障もしていないらしく、エンジンをかけるとそろそろと走り出した。道中、会話はなかった。ぼくはぼんやりと考え事をしていた。後部座席というのは不思議な空間だなと思った。どこかへ向かっていることは確かだが、行き先を決めるのは自分ではない。それはたとえ後ろ向きのままでも、生きてゆける空間に思えた。遠くには革命記念塔の頭が見えて、街路には山茶花が咲き乱れていた。
車が停まる。どうやら着いたらしかった。先生は運転席を降りて、車の後ろに回りトランクを開けるとぼくが放り投げた本を拾い上げた。
「待っていてくれ」と言い残して先生は工場に向かった。車内の埃っぽい空気から逃れたかったので、ぼくもドアを開けて降りた。手持ち無沙汰になって上着のポケットを手で探ると、煙草の箱がふたつ出てきた。「曙光」と「地下室」という名前の煙草だった。「地下室」の箱から一本取りだして、マッチで火を点けた。頭上に浮かんだ煙は、いったんカメレオンのような形を作ったかと思うと数秒後には文字通り霧散した。遠目からは、先生が戸口で技師らしき男と話しているのが見えた。先生は技師の話に相づちを打ちながら腕時計を外し、それを彼に手渡す。技師は書類に何か書き込み、ちぎって先生に見せる。先生は本を小脇に抱えたまま、踵を返してこちらに戻ってきた。
「煙草、一本貰える?」
ぼくは「曙光」のえんじ色の箱から一本抜いて先生に差し出した。
「どうなりましたか」
「この砂の本はどうも対象外らしくてね。まあ、仕様がない。君にあげる」
手渡された本をまじまじと眺めて、ぼくがこの本を読むことは恐らくないだろうと思った。60年代風の車の中で砂にまみれていた本なんて、内容がどうあれ、この時代には似つかわしくない。先生の咥えている煙草の先からは、尋常でない量のどす黒い煙が流れ出て、周囲の風景を濁らせていた。
煙を手で払って、ふと顔を上げると、先生の傍らに浮浪者じみた男が立っていた。男の顔には靄がかかっていて、その輪郭と表情は判然としなかった。男の右手には柄も刃も銀色に鈍く光るハサミが握られており、その切っ先をこちらに向けると、男は小声で言った。
「時計を寄越せ。さもなければ、貴様の目玉をくりぬく」
ぼくらは思わず駆け出し、角を曲がったところにあった映画館に逃げ込んだ。切符は買わなかった。奇妙なことに、男二人が息急いて駆け込んできたというのに、観客は凝とスクリーンを見つめ続けてているのだった。まだ慣れない暗闇の中で眼を細めると、彼らがマネキン人形であることが解った。スクリーンには膝を抱えて海を見つめる少年と少女の背中が映し出されていた。不意に映画館の隣には共同墓地があって、薄暗いプレハブ小屋の中で三匹の黒猫がじゃれあって蛾を殺している映像がぼくの脳裡に浮かび、その瞬間、この状況が抜き差しならぬものであることを理解した。間を置かず、男が肩を揺らしながら入ってきた。ぼくと先生の前で立ち止まると、男は黙ってハサミを突きつけてきた。ぼくは破れかぶれになって、もう素直に時計を渡してしまおうと思い、左腕に目線を移し、ふと思い出した。ぼくの時計は随分前から電池が切れていて、針が止まったままだったのだ。すると今度は急にぼくはそわそわした気持ちになって、どうしたらいいか解らなくなってしまった。差し出すべきものが手元にあるのに、おそらくそれは役に立たないと思うと途方もなく切なくなった。内蔵を圧迫されたような心持ちで、男の眼の辺りを見つめると、「そんなら要らん」と男は吐き捨てるように言った。僕は胸を撫で下ろしたが、問題は先生だった。さっきの工場で先生は修理工に自分の時計を渡してしまっていた。ところが先生は慌てず、ポケットを探り、金色の懐中時計を差し出した。男はそれを奪うと、早足に逃げていった。
映画館を出て、ぼくは先生に尋ねた。
「どうして二つも時計を持っていたんですか」
「この街ではよくあることだからね、うん。用心して持ってきておいたんだ」
「時計泥棒がですか」
「そうだよ。さあ、用事は済んだ。約束通り、飯でも食いに行こう。このあたりでどこかうまいところ、知らない?」
先生はあっけらかんとした顔でぼくを見つめた。
「ぼくにはこの街のことが、よく解りません」
ぼくは今にも泣き出しそうだった。