2015年10月13日火曜日

『砂漠の街』


 先生がぼくの住む街を訪れる、という知らせを受け取ったのは丁度一週間前のことだった。ちょっとした用事があるので、少し会わないか、君の下宿先の目の前の路地で待ち合わせよう、と手紙には書いてあった。約束の時間に路地に出ると、先生がいた。少なくともぼくがここに越してきて以来、路地に違法駐車されたままの60年代風の真っ赤な自動車に先生は背を預けていた。砂ぼこりの中、長年眠り込んでいた車体の光沢は、とうの昔にこの街に奪われていた。黒服に山高帽を被った先生は相変わらずのギョロ目と痩身で、ぼんやりとパイプを吹かしていた。
「ご無沙汰しております」
「久方ぶりだね。どうだい、調子は。この街で暮らす君の身は案じてもいたのだけれど、いかんせん暇がなくてね。ついつい手紙もサボりがちになって、すまなかった」
「相変わらず、よく解らないことをしてはよく解らない人たちに怒られてる夢を見ています」
「そうかい。息災ならそれでいい」と先生はそっけなく言った。
先生の見た目は、ずいぶんと若く見えた。先生は都市に住むことを許された人間だから、いつまでも溌剌としていられるのだろうか。この砂漠の街で暮らしていると、時々自分の年齢が解らなくなる。みな、服や紙に砂塵が付くのを厭ってほとんど外出をしないので、他人と顔を合わせることも稀である。かくいうぼくもどれくらいぶりに下宿から出たか定かではない。息災なことには違いないが、誰もが死んでいるように生きているのだ。
「それにしても、久しぶりだ。君に会うのもそうだが、この街に来たのは実に20年ぶりだよ。まあ、立ち話もなんだ、早いところ僕の方の用事を済ましてしまって、飯でも食おうじゃないか。付き合ってくれるかな?」
「勿論です」
「じゃ、行こうか」
そう言うと、先生は上着のポケットからジャラジャラと音を立てながら鍵束を取り出した。先生はその中の一つを迷いなく選んで、自動車の鍵穴を回した。
「これ、先生の車だったんですか? ずいぶん前から、ここにありましたけど」ぼくは思わず尋ねた。
「20年前からここに停めてあるよ。ぼくがまだ学生で、この街に住んでいたころ、友人と金を出し合って買ったんだ。ジャンク品だったから、買った状態ではほとんど動かなかったのだけど、どうにか修理してね。その時、ついでに色も塗ったんだ。もとは透き通るような水色だった」
「20年も。よく撤去されなかったですね」
「されないさ。この街では変わろうとしないものはいつまで経っても変わらないんだ。まあ、砂まみれになってはいるけど。さあ、乗って」
 先生に促されて、後部座席に乗り込んだ。ドアを開けたとたんに、車の内部に潜り込んでいた砂が久しぶりの外気に触れてつかの間、騒ぎを起こした。砂を払ってどうにか一人分の座席を確保して腰掛けると、つま先に何かが触れた。拾い上げてみると、それは一冊の本であった。表紙も背表紙も炭化してしまっていて、題名は判読できなかった。ぼくはそれをトランクに放り投げた。
「ところで、今日はどちらに?」と訊くと、
「ある工場に行くんだ。ある本をこの世から消そうと思って」と先生は振り向かずに答えた。
車は故障もしていないらしく、エンジンをかけるとそろそろと走り出した。道中、会話はなかった。ぼくはぼんやりと考え事をしていた。後部座席というのは不思議な空間だなと思った。どこかへ向かっていることは確かだが、行き先を決めるのは自分ではない。それはたとえ後ろ向きのままでも、生きてゆける空間に思えた。遠くには革命記念塔の頭が見えて、街路には山茶花が咲き乱れていた。
 車が停まる。どうやら着いたらしかった。先生は運転席を降りて、車の後ろに回りトランクを開けるとぼくが放り投げた本を拾い上げた。
「待っていてくれ」と言い残して先生は工場に向かった。車内の埃っぽい空気から逃れたかったので、ぼくもドアを開けて降りた。手持ち無沙汰になって上着のポケットを手で探ると、煙草の箱がふたつ出てきた。「曙光」と「地下室」という名前の煙草だった。「地下室」の箱から一本取りだして、マッチで火を点けた。頭上に浮かんだ煙は、いったんカメレオンのような形を作ったかと思うと数秒後には文字通り霧散した。遠目からは、先生が戸口で技師らしき男と話しているのが見えた。先生は技師の話に相づちを打ちながら腕時計を外し、それを彼に手渡す。技師は書類に何か書き込み、ちぎって先生に見せる。先生は本を小脇に抱えたまま、踵を返してこちらに戻ってきた。
「煙草、一本貰える?」
ぼくは「曙光」のえんじ色の箱から一本抜いて先生に差し出した。
「どうなりましたか」
「この砂の本はどうも対象外らしくてね。まあ、仕様がない。君にあげる」
手渡された本をまじまじと眺めて、ぼくがこの本を読むことは恐らくないだろうと思った。60年代風の車の中で砂にまみれていた本なんて、内容がどうあれ、この時代には似つかわしくない。先生の咥えている煙草の先からは、尋常でない量のどす黒い煙が流れ出て、周囲の風景を濁らせていた。
 煙を手で払って、ふと顔を上げると、先生の傍らに浮浪者じみた男が立っていた。男の顔には靄がかかっていて、その輪郭と表情は判然としなかった。男の右手には柄も刃も銀色に鈍く光るハサミが握られており、その切っ先をこちらに向けると、男は小声で言った。
「時計を寄越せ。さもなければ、貴様の目玉をくりぬく」
ぼくらは思わず駆け出し、角を曲がったところにあった映画館に逃げ込んだ。切符は買わなかった。奇妙なことに、男二人が息急いて駆け込んできたというのに、観客は凝とスクリーンを見つめ続けてているのだった。まだ慣れない暗闇の中で眼を細めると、彼らがマネキン人形であることが解った。スクリーンには膝を抱えて海を見つめる少年と少女の背中が映し出されていた。不意に映画館の隣には共同墓地があって、薄暗いプレハブ小屋の中で三匹の黒猫がじゃれあって蛾を殺している映像がぼくの脳裡に浮かび、その瞬間、この状況が抜き差しならぬものであることを理解した。間を置かず、男が肩を揺らしながら入ってきた。ぼくと先生の前で立ち止まると、男は黙ってハサミを突きつけてきた。ぼくは破れかぶれになって、もう素直に時計を渡してしまおうと思い、左腕に目線を移し、ふと思い出した。ぼくの時計は随分前から電池が切れていて、針が止まったままだったのだ。すると今度は急にぼくはそわそわした気持ちになって、どうしたらいいか解らなくなってしまった。差し出すべきものが手元にあるのに、おそらくそれは役に立たないと思うと途方もなく切なくなった。内蔵を圧迫されたような心持ちで、男の眼の辺りを見つめると、「そんなら要らん」と男は吐き捨てるように言った。僕は胸を撫で下ろしたが、問題は先生だった。さっきの工場で先生は修理工に自分の時計を渡してしまっていた。ところが先生は慌てず、ポケットを探り、金色の懐中時計を差し出した。男はそれを奪うと、早足に逃げていった。
 映画館を出て、ぼくは先生に尋ねた。
「どうして二つも時計を持っていたんですか」
「この街ではよくあることだからね、うん。用心して持ってきておいたんだ」
「時計泥棒がですか」
「そうだよ。さあ、用事は済んだ。約束通り、飯でも食いに行こう。このあたりでどこかうまいところ、知らない?」
先生はあっけらかんとした顔でぼくを見つめた。
「ぼくにはこの街のことが、よく解りません」
 ぼくは今にも泣き出しそうだった。

ユートピアはいずこ


 ホセ・ムヒカが「世界一貧しい大統領」というフレーズで最近やたらとメディアに取り上げられるようになった昨今。ホセ・ムヒカ氏は若かりしころ極左ゲリラ組織「ツパマロス」に参加し、社会主義革命を目指したものの、独裁政権下で投獄され10年以上収監された。2010年3月から2015年2月までウルグアイ大統領をつとめる。有名な2012年リオ・デ・ジャネイロでの演説がこちら。ここまでが基本情報。

 昨日も同氏へのインタビューがNHKで放送されていた。ムヒカ氏の基本的な思想は「ハイパー消費社会」の否定。「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」とし、「カードの支払いに追われる人生など馬鹿げている」と主張している。日本社会に対しても、経済発展を評価しながらも「信用を勝ち取るためには着物を捨て、ネクタイを締めなければいけなかった」と、その精神性の変化に疑問を投げかけた。

 また、同氏は「国家の指導者は多数決で選出されるのだから、多数派と同じ生活をするべきだ」とし、給与の90%を慈善団体に寄付し、自身は10万円以下で生活している。消費社会に疑問を投じ、行動を自身の第一原理とした政治家なら、ほかにもいる。例えば、フィデル・カストロだ。しかし、彼の行動はあくまで理想主義的なものがあって、鉄人フィデルだからこそ可能であろう行動や規範を市民にも課してしまった。そこにキューバ革命政権が瓦解を始めた要因の第一歩があるような気がする。一方、ムヒカ氏は自身の行動を市民に合わせているのだから、無理がない。ありもしないユートピアを目指すのではなく、現状をユートピアに近づけてゆく。ムヒカ氏の政治理念で、評価すべき点はまさにここにあるのではないだろうか。

 だからこそ、日本人(もとい日本及び欧米先進諸国のメディア)が諸手を挙げてムヒカ氏を絶賛するのはかなり違和感があると思うのですよね。社会が日本のように高度に経済化・インターネット化してしまったからには、もう引き下がれないというか、今更「クレジットカードを焼却し、日本人よ、みなキモノに戻ろう!」などと言い出そうものなら、それこそナンセンスというか、時代錯誤も甚だしい発言で、ちょっと危ない思想の持ち主と思われること間違い無しです。部分的にはムヒカ氏の反ハイパー消費社会思想を見習うところもありつつも、その理念を鵜呑みにしてはいかんと思うのです。

 さて、あくまで文化的側面を考えれば、ウルグアイは決して貧しい国とは言えない。かのボルヘスも「タンゴの起源はウルグアイにある」とどこかに書いていたし(出典未確認)、ガウチョ文学 La literatura gauchesca もウルグアイ文学の主要な文学ジャンルのひとつだ。19世紀の後半には幻想小説の巨匠オラシオ・キローガ、20世紀にはフアン・カルロス・オネッティやマリオ・ベネデッティなどの大家も輩出している(ただし、その大半が後に亡命し、国を離れている)。

 ムヒカ氏の思想に共通するものは、ウルグアイに古くから根付いてるものだと言えなくもない。20世紀の前半にはすでにホセ・エンリケ・ロドーが『アリエル』で物質主義を批判しているし、歴史家エドゥアルド・ガレアーノもその著作で米国による経済搾取を広く論じている。ムヒカ氏の手によって、ウルグアイの希求したユートピアは100年ののち結実の目をみている……のだろうか?



2015年10月7日水曜日

ペルーの恋する若者


 マリオ・バルガス=リョサ(1936−)はペルーの小説家。1959年に処女短編集『ボスたち』を発表。同作でレオポルド・アラス賞を受賞。1963年に初の長編『都会と犬ども』を出版(うろ覚えですが、前年にブレーベ叢書賞を受賞し、その報償? として翌年に出版という流れ。そのためか、発表年が1962年となっている資料もよく見かけます)。1966年には『緑の家』を出版、1967年に同作でロムロ・ガジェゴス賞を受賞。その後も『ラ・カテドラルでの対話』(1969)、『パンタレオン大尉と女たち』(1973)、『フリアとシナリオライター』(1977)とほぼ3年おきに長編小説を書き続け、2010年にはノーベル文学賞まで受賞。

 と、ここまではバルガス=リョサの前中期のおさらいというか、個人的なお勉強。なんというか、賞をとりすぎではないか。

 バルガス=リョサは『パンタレオン大尉と女たち』以降、コメディ・タッチな作風にも挑戦した。続く『フリアとシナリオライター』もその流れに組み込むことができるようで、いろんな意味でバルガス=リョサらしからぬ小説ではある。言うなれば、『金閣寺』や『仮面の告白』を三島的なものと想定して、『命売ります』を読んで肩すかしを食らうような感じ。ただ、ノーベル文学賞の受賞理由に「権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた」とあり、いちおう『フリアとシナリオライター』からこれに似た構図を読み取ろうとすれば不可能ではありません。つまり、結末は「敗北」というよりむしろ大団円といった感じですが、叔母さんと結婚しようとする<僕>と、それを阻止しようとする、いかにも強権的な父との対立を「個人の抵抗と反抗」と「権力」と解釈することもできるのではないかと思うわけです。この小説をいわゆるビルディングスロマンとして読むのは、かなり妥当な感覚ではないでしょうか。

 『フリアとシナリオライター』は20章立ての構成。奇数章は作者と同名の<僕>ことマリオ・バルガス=リョサの物語。中心となるのは<僕>が働くラジオ局にやってきた<物書き先生>ことペドロ・カマーチョの話と、<僕>とフリア叔母さんのドタバタ恋物語。偶数章にはペドロ・カマーチョの書いたものとおぼしきシナリオが配置されている。それぞれのシナリオは独立しているはずだが、後半に進むにつれ、ペドロ・カマーチョの神経衰弱をあらわすかのように、筋も登場人物も混然となってゆく。

 あくまで個人的な感覚だが、やはりバルガス=リョサはリアリズムの作家という印象がとみに強い。バルガス=リョサには『果てしなき響宴』というフローベール論があるが、それも納得という感じだ(ちなみに、与太話としてホセ・ドノソは『ラテンアメリカ文学のブーム』でフリオ・コルタサル、ガルシア=マルケス、カルロス・フエンテスにバルガス=リョサを<ブーム>の四人衆と呼んでいます。各々の敬愛する作家が、順にエドガー・アラン・ポオ、フォークナー、バルザック、フローベール。どれも納得?)それだけに、ペドロ・カマーチョが後半になってダウンしてしまうのが、いかにもバルガス=リョサらしい筋だと思った。なんというか、「文学一辺倒ではいかん!」という感じ? 分からないですけど。

 個人的に興味があるのが、バルガス=リョサと実存主義の関係。『都会と犬ども』のエピグラフにはサルトルの劇『キーン』からの一節が使われていたり、後に彼が政界へ進出しようとするときにも、その政治主張のなかにサルトルを匂わせるような部分があったりとなかなかおもしろそうなのです。そもそもバルガス=リョサが「全体小説」を目指す作家だとはよく言われていますしね。

こんな思惑を持ちつつ、『フリアとシナリオライター』を読むと、実存主義に言及している場面が2つありました。

ハビエルがその夜の締めくくりに<ネグロ=ネグロ>を選んだのは、そこが知的なボヘミアンの溜まり場として――木曜日にはちょっとしたイベント、つまり一幕芝居や独り芝居、リサイタルが開かれ、画家、音楽家、作家が集まった――評判の店だったことに加え、それがサン・マルティン広場のアーケードの地下にあり、テーブルは二十席そこそこ、そして僕たちが「実存主義的」と考えていた装飾を施した、リマで最も照明の暗いナイトクラブだったからだ。(247頁)

「今月も聴取率の記録を更新したんだ。つまり、ストーリーをブレンドするという思いつきが功を奏してるってことだ。親父はああいう実存主義的なやり方を不安がっているけれど、結果が出てるんだ。数字を観てくれ」(297頁)

ここでの「実存主義」という語は明らかに本来とは異なった意味で使われています。詳しくはサルトルの『実存主義とは何か』にありますが、少なくとも1945年当時のパリ(特にサン・ジェルマン・デ・プレ)や1950・60?  年代のペルーではある種の若者文化、あるいは1950年代の英国で流行した「怒れる若者」のような反体制的な若者を指す言葉として「実存主義」というタームが使われていたということでしょう。

デビュー当時、バルガス=リョサが「ペルーの怒れる若者」と呼ばれていた由縁も案外この辺にありそう……?

「魔術的リアリズム」に関する覚書①


 今日ではラテンアメリカ文学の専売特許ともみなされるようになってしまった、「魔術的」リアリズム。その起源はドイツにある。

それは、表現主義と抽象全盛の時代に突如として登場してきた異様なリアリズムであった。大気が突然アウラを失って、事物は真空のなかに置きざりにされる。世界関連から切りはなされて、いきなりそこにあるもの。その魔術的輝き。日常現実のごくありふれた対象を描きながら、当の事物にこの世の外の、いわば世界関連外の光を照射して、事物を「形而上的妖怪的」(キリコ)空間のなかに立ち上らせるリアリズム。(種村季弘『魔術的リアリズム』、筑摩書房、2010)

同書は、両大戦間の1920代ドイツに突如立ち現れ、そして消えたリアリズムについて論じたものである。そのリアリズムは「ノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)」あるいは「魔術的リアリズム」と称された。

 1920年代のドイツは社会的・経済的不安を抱えつつも、電気の普及に伴い、文化的には隆盛をむかえた時代でもあった。それらを象徴するドイツ表現主義の映画が、『カリガリ博士』と『メトロポリス』である。

 こうした表現主義(あるいは印象主義)に対する反動として、現れたのが「メランコリーの芸術」たる「ノイエ・ザハリヒカイト」であり、「魔術的リアリズム」であった。

続く……