「黒いオルフェ」(1948)はレオポルド・サンゴール編『ニグロ・マダガスカル新詞華集』の序文として書かれたサルトルの文章である。以下、内容のまとめと引用。
「われわれ」西欧人は、二度の大戦を経て、絶対的な審級を失ってしまった。本質的なものなど何もありはしない。「われわれ」が何者であるかを知るすべは一つ、それは「他者」であるニグロの目を通じて、「われわれ」を見つめ直すことである。
「それと言うのも白人は、相手に見られずに見るという権利を三千年にわたって享受し続けてきたからだ。白人は純粋な眼差しだった。[……]今日では、これらの黒い人びとがわれわれを見つめており、われわれの眼差しはわれわれ自身の眼に送り返されてくる。」(159)
「かつて神権を有していたわれわれヨーロッパ人は、ここしばらく、アメリカやソヴィエトの眼差しの下で、自分たちの権威が崩れ去るのを感じていた。ヨーロッパはすでに地理上の偶然、アジアによって大西洋にまで押し出された半島にすぎなくなった。せめてアフリカ人の飼い馴らされた目の中に、自分たちの偉大さの片鱗を認めようとわれわれは望んでいたのだった。ところがもう飼いならされた眼はどこにもない。あるのはただ、われわれの大陸を裁く、野生の自由な眼差しだ。」(160)(つまり、眼差しを媒介とする、対他による対自の回復・復権とその頓挫。)
「私がここで示したいと思うのは、いかなる道を経てこの漆黒の世界に近づきうるかということであり、一見人種的に見える彼らの詩が、究極においては、あらゆる人間の歌であり、あらゆる人間のための歌であるということだ。」(162)
「白人の労働者と同じく、ニグロもまたわれわれの社会の資本主義構造の犠牲者である。この状況は、皮膚の差を越えて、黒人が彼同様に抑圧されているある種の階級のヨーロッパ人と緊密な連帯関係にあることをあらわにする。」(164)
黒人は詩体験を通じて自己を意識する。プロレタリアートはなぜそうではないのか? 理由は単純である。プロレタリアートは技術こそ、自己の解放の道具であると信じている。技術に関する用語は客観的であらねばならない。「〈物質〉は歌をうたわないのだ。」
けれども、プロレタリアートと黒人が犠牲者という点で同胞であるとしても、各々の事情は全く異なる。「白人の中の白人であるユダヤ人なら、ユダヤ人であることを否認し、自分も人間の中の人間であると宣言することができる。ニグロはニグロであることを否認することもできなければ、あの無色で抽象的な人類となる権利を要求することもできない。彼は黒いのだから。」(164)
ヨーロッパの労働階級は、彼の状況の客観的性格(例えば、富の欠乏といった)によって被害者となっている。けれども、黒人が被害者であるのは、つまり差別の対象となっているのは主観的性格(つまり、心的印象)によってである。「従って、人種意識はまず黒人の魂の上に向けられる。」この黒人の思想と行為に共通する特質こそが、「ネグリチュード」と呼ばれるものである。
このように、黒人詩は主観性を帯びる。その目的はただ一つ、「黒人の魂を表明することだ。」(166)
黒人は肉体と精神の両面で追放を被っている。肉体、すなわちアフリカ大陸からの追放と、精神、すなわち白人文化という壁からの追放である。かくして、ネグリチュードの詩人のうちには「祖国復帰」と「黒い魂」へのテーマが混ざり合っている。これをサルトルは、「オルフェ的」と呼んでいる。
ネグリチュードの主導者たちのジレンマ。それは、フランス語で彼らの福音を認めなければならなかったことだ。アフリカの各地から連れてこられた彼らにはフランス語以外の、共通言語がない。幼い頃から触れてきたフランス語は、外国語ではないにせよ、彼自身の魂をぴったりと言い当てることができない。しかし、この言語の蹉跌こそが、詩を生み出しうるのだ。「彼らが話す国語(langage)の内部にさえ抑圧者が姿を現す以上、彼らはこの国語を破壊せんがためにこれを話そうとするだろう。」(172)
例えば、《黒と白》というような対になる表現を用いるとき、興味深いことが起こる。白人は潔白を意味するのに「雪のように白い」というだろう。卑劣さを「黒さ」と呼ぶだろう。このヒエラルキー(コノテーションといっても良い)を覆さぬうちは、黒人は常に自分を責めたてることになる。そして、この転覆が行われた時、それはすでに詩と呼ぶべきものになっているのだ。例えば、「潔白の黒さ」、「美徳の暗闇」といった具合に……。
ここに至って、黒は色以上のものとなる。黒は悪全体、善全体を同時に含む。「白の持つ秘められた黒さ、黒の持つ秘められた白さというものがあり、存在と非存在の凍りついたきらめきがある。」(175)
セゼールの詩はこのことを十全に語っている。「夜はもはや不在ではなく、拒否となる。」白い太陽の光を破壊する黒。こうしてニグロ革命家は、自身が否定そのものとなりおおせる。この闇の否定性こそが価値となる。「自由が夜の色となるのだ。」ニグロは、ネグリチュードの中で自分自身を発見し、そのものとなる。
エティエンヌ・レロへの批判。彼の詩法は、シュルレアリスムの模倣でしかない。「《骰子一擲》が存在の隠れた様相を引き渡してくれることを——さして信じもせずに——漠然と期待しながら、かけ離れた二つの表現のあいだに橋をかけようとするおきまりの手法である。」(179)(これはカルペンティエルが『この世の王国』の序文で行った指摘と重なる。)これはたかだか形式上の想像力の解放であり、せいぜい反対物の穏やかな統一といったものだ。
それに引き換え、セゼールの詩は一貫して、白人の文化を破壊する。白人のシュルレアリストが自己の内奥に寛ぎを見出すのに対して、セゼールが自己の内奥に見出すのは、頑として動かぬ復権要求と恨みである。「セゼールにおいて、シュールレアリスムの偉大な伝統は完成され、決定的な意味を持ち、同時に破壊される。」(181)
重要なのは、セゼールが「詩が客体となることを欲求するシュールレアリスムの伝統を貫いている」ということだ。「セゼールの言葉は、ネグリチュードを叙述するのではない。指示するのではない。[……]彼の言葉はネグリチュードを作る。われわれの目の前でそれを構成してみせる。今やそれは、読者が観察し、学習しうる事物となる。彼が選んだ主観的方法はわれわれが先に語った客観的方法に合流する。他の詩人たちが黒人の魂を内面化しようとしているときに、彼は自分の外にこれを放逐するのである。」(182)
さて、ネグリチュードとはいったい何であるか? まず言えることは、「白人はネグリチュードについて適切に語ることはできない。」なぜなら、白人はその内的経験を持っていないし、ヨーロッパの言語はそれを叙述しうるような言葉を欠いているから(何という、身もふたもない……)。ただ、ネグリチュードが純粋詩であるということは言えるだろう。
ハイデガーの用語を借りていえば、「ネグリチュードとは、ニグロの世界—内—存在」に他ならない。つまり、いかなる反省にも先行して、ニグロ(性)は「世界のただなかに実存する(exister au millieu de monde)」ということだ。
西欧は技術を生み出したがゆえに、自然を純粋な量として捉え、外在性としてあらわにする。いっぽうで、ニグロは工作者となることを拒否したがゆえに、自然を蘇生させる。
「道具について白人は全てを知っている。しかし道具は事物の表面を引掻くだけで、持続、生命を知らない。これに反してネグリチュードとは感応による会得のことである。黒人の秘密とは、彼の実存の源泉と〈存在〉の根とが同一であるということだ。」(185)
また、彼らの汎神論にも着目しなければならない。白人は神の手によってこねられた被造物である。それに対して、「われらの黒人詩人にとっては、存在は起ち上がる陰茎のように、〈無〉から出現する。」(187)
ネグリチュードはその根本において両性具有であり、生命に満ち溢れている。加えて、ネグリチュードの詩は一貫して反キリスト教的であるにもかかわらず、その〈受難〉をその特徴としている。「自己の苦悩を意識する黒人は、いっさいの人間の苦悩を引き受け、すべての人間にかわって、白人にさえもかわって苦しむ人間として、自分自身の眼に描かれるのである。」(189)
これらをまとめると:「黒人は〈生命〉に対する性的な感応であるかぎりにおいて〈自然〉全体と融合し、反抗的苦悩の〈受難〉であるかぎりにおいて〈人間〉としての自己の復権を要求する」(189)ものである。
こうした苦悩の体験によって、黒人の意識は歴史的なものになる。奴隷制はすでに過去のものとなったが、その底知れぬ悪夢から、彼らは目覚めているかどうかわからないのだ。
「黒人は一つの集団の記憶を共有している。」(192)パスカルによれば、人間は形而上学と歴史との非合理な合成物である。われわれが泥からつくられたのだとすればその偉大さは説明がつかず、かといって神の被造物だとすればあまりにも悲惨だ。これを飲み込むためには原罪という「失墜」に頼らねばならなかった。セゼールが自らの人種を「顚落した種族」と呼ぶのもこのためである。この点で、黒人の意識とキリスト教意識は比較しうる。奴隷制の鉄の掟は「過失」を、そして奴隷制の廃止は「贖罪」を思い起こさせる。しかし、この「過失」は彼自身のものではない。白人の過失である。黒人は無辜の生け贄なのだ。従って、黒人詩のほとんどが反キリスト教的であるのは、それが瞞着に他ならないことを見抜いているからである。
「苦しみの直感が集団的過去を授け、未来に一つの目的を与えるに応じて、ついには黒人は自己を歴史化する。」(193)
ここに至って、人種は歴史性へと変化する。「ネグリチュードは、その〈過去〉及び〈未来〉ともろともに、〈世界史〉の中へ挿入される。」「いまや彼は自己の使命の上に、生きる権利を打ち樹てる。この使命はプロレタリアの使命とまったく同様、彼の歴史的状況に由来する。黒人は他の人間以上に資本主義の搾取に苦しんできたから、他の人間以上に反抗と自由への愛を獲得している。また誰よりも抑圧されたものなのだから、彼が自分自身の救済に努めるとき、必然的に彼はあらゆる人間の解放を追求していることになる。」(195)
ネグリチュードは、在ること(être)と在る—べきこと(devoir-être)との絶えず変化する輝きだ。それは人を作り、人はそれを作る。何より、それは「人種差別に反対する人種差別を創り出している」。ここで、ネグリチュードは(再び)プロレタリアートと接続される。弁証法的に考えよう。白人の覇権の正当性というテーゼに対して、ネグリチュードをアンチ・テーゼとして定立すること。ここから「人種のない社会における人間的なものの実現」という綜合が生じるだろう。「このように、〈ネグリチュード〉は己れを破壊する性質のものであり、経過であって到達点ではなく、手段であって最終目的ではない。」(197)
黒人は、やっと見つけた自尊心たるネグリチュードの放棄を運命付けられている。それは純粋な自己超出であり、愛である。「〈ネグリチュード〉は自己を抛棄するその瞬間に自己を見出す。負ける〔滅びる〕ことを受け容れるその瞬間に、勝を収めるのである。」「苦悩にあふれ、だが希望にみちた神話、〈悪〉から生まれて〈善〉を孕んでいる〈ネグリチュード〉は、死ぬために生まれて生涯のもっとも素晴らしい瞬間においてすら死を感じ続けている一人の女のように生き生きとしている。それは不安定な休息であり、爆発的な固定性であり、自己を放棄する自尊心であり、一時的であることを自覚している絶対である。」(199)
「〈ネグリチュード〉は、黒人がもう完全には帰れない郷愁の〈過去〉と、〈ネグリチュード〉が新しい価値にその場を譲るであろう〈未来〉とのあいだにかけられたあの緊張である。」「〈ネグリチュード〉は客観的なものの中に刻まれる主観性である。だから一篇の詩、すなわち一個の客体となった主観性(subjectivité-objet)の中に具象化されねばならない。」(200)
■サルトル, ジャン=ポール「黒いオルフェ」『シチュアシオンⅢ』佐藤朔ほか訳. 人文書院, 1964. pp.159-207.