アテネ・フランセでパトリシオ・グスマンの特集上映が催されていた。いまのところ、日本で放映されているのは8作。製作年代順に並べると:
1975『チリの闘い 第一部 ブルジョワジーの叛乱』
1976『チリの闘い 第二部 クーデター』
1978『チリの闘い 第三部 民衆の力』
1997『チリ、頑固な記憶』
2001『ピノチェト・ケース』
2004『サルバドール・アジェンデ』
2010『光のノスタルジア』
2015『真珠のボタン』
今回観たのは『チリ、頑固な記憶』、『ピノチェト・ケース』、『サルバドール・アジェンデ』。初期の『チリの闘い』三部作と最新のチリ三部作(『光のノスタルジア』、『真珠のボタン』に続いてアンデス山脈を舞台に新作を撮る構想があるらしい)のあいだに発表された「回想三部作」である。
言うまでもなく、いずれもチリの9月11日クー・デタを主題に据えたドキュメンタリーだ。作品の連続性は、随所に『チリの闘い』の映像が引き継がれていることからも明らかだろう。『チリの闘い』第一部のラストと第二部の冒頭で提示されるアルゼンチン人カメラマン、レオナルド・ヘンリクセンが銃弾に倒れるシーンはその一例だ。このカットは『サルバドール・アジェンデ』で再び引用されている。
また、『チリの闘い』で最も幻想的な映像といえば、脚をぴんと伸ばした、男性か女性かも判然としない長髪の人物が荷車を引き、滑るように走っているシーン(写真参照)だろう。これも『チリ、頑固な記憶』と『サルバドール・アジェンデ』で再び登場する。
『チリ、頑固な記憶』Chile, la memoria obstinada では、『チリの闘い』を鑑賞する人々の様子が克明に映し出されているが、その反応は必ずしも画一的ではない。クー・デタをよく知らない若者たちのなかには、「人間にこんな残虐なことができるなんて」と泣きだす者もいれば、ピノチェトの行為を評価する学生もいる。ピノチェト肯定論者によれば、「彼はチリが内戦・分裂状態に陥るのを回避し、被害を最小限に食い止めた」のだと言う。グスマンは決して、ピノチェトを絶対悪の象徴として恣意的に演出しない。こうした点に、作品をアジェンデ賛美の単なるプロパガンダに落とし込むことなく、あくまでドキュメンタリー監督たろうとするグスマンの矜持がうかがえる。
終幕部には、クー・デタ後に「行方不明」となったカメラマン、ホルヘ・ミューラー・シルバの話が出てくる。
続く『ピノチェト・ケース』El caso Pinochet は、1998年、ジェノサイドの容疑でピノチェトがロンドンにて逮捕され、裁判にかけられた事件を扱っている。英国からの引き渡しを求めたのはスペインのフアン・ガルセス判事。アジェンデ政権下で政治顧問として働いており、クー・デタを逃れ、マドリッドに亡命した人物だ。この裁判の顛末は、アリエル・ドルフマン『ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判——もうひとつの9・11を凝視する』(宮下嶺夫訳、現代企画室、2006)に詳しい。
スペインとチリは政治的悲運という点で、根深い痛みを共有している。この「ピノチェト事件」の調査に着手したのは、カルロス・カストレサナなる人物であるが、彼は自身もまたフランキスモに虐げられた者のひとりであったと語る。スペイン内戦が終わり、フランコが政権を掌握したのちの1940年代初頭、チリはスペインから2500人もの難民を受け入れた。彼らをフランス大使館経由で亡命させたのが、当時外交官を勤めていたパブロ・ネルーダだ。
なぜピノチェトが英国に滞在していたかという理由は、勾留中の彼をサッチャーが訪問する場面でつまびらかにされる。ピノチェトは自身が支配下におくチリ軍隊の武器をサッチャー政権下のイギリスから購入し、イギリスはフォークランド戦争でチリの支援を受けた。こうした1980年代の状況は、グローバル化経済の闇を浮き彫りにするものといえるだろう。
また、グスマンが『チリの闘い』を撮影したフィルムを叔父イグナシオに託し、スウェーデン大使館経由で国外へと持ち出したという事実も、ここで語られている。
『サルバドール・アジェンデ』は、その名の通り、サルバドール・アジェンデの生涯を辿る伝記ドキュメンタリーだ。“El Chicho” と呼ばれた幼少期のアジェンデをよく知る Mama Rosa こと Zoila Rosa Ovalle の回想や、彼の思想形成に影響を与えたイタリア人アナキスト Juan de Marchi なる人物の情報が提示され、なかなか興味深い。実の娘イサベル・アジェンデ(作家のイサベル・アジェンデではない)とカルメン・パスも登場する。また、ここでは、レネ・シュナイダー将軍の暗殺が米国の支援のもと行われたものであったことなど、ニクソン政権下におけるCIAの暗躍が詳しく語られている。
このフィルムで最も印象的なのが、多国籍企業の横暴を糾弾するアジェンデの国連演説だ。1972年に撮影された、カラーの映像である。同じ頃に撮影された、モネダ宮への空爆を含む『チリの闘い』や、カストロのチリにおける演説は、当然モノクロだ。こうした白黒映像の連続に、突如としてカラーの映像が挿入され、アジェンデの肉体性、そしてクー・デタの現実性がにわかに蘇る。この対比に、少なくともぼくはめまいを禁じえなかった。
上映後には、太田昌国さんのトークがあった。『チリ、頑固な記憶』での学生たちの反応を取り上げ、「崩壊」の感覚がない人びとがその記憶を共有することの難しさ、およびその重要性を語った。
当然、ぼく等はモネダ宮殿が「崩壊」する映像をリアルタイムで観ることがなかった。ブラウン管越しにベルリンの壁の「崩壊」や、ソ連の「崩壊」を目にすることもなかった。また、生まれてはいたにせよ、記憶には残らない90年代前半、日本で立て続けに流れた「崩壊」のイメージも、ぼく等の経験的記憶に存在していない。それでも、「崩壊」の記録——パトリシオ・グスマンの映像でも、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』でも、何でも構わないが——に触れることで、「崩壊」を擬似的にであれ追体験することは可能だろうし、それらはある種の既視感をぼく等に喚起することさえある。
ぼく等の脳裏によぎる「崩壊」のイメージとは、もうひとつの9・11であり、あるいはその10年後の映像であるかも知れない。これが意味するのは「崩壊」のイメージが単独的には存在せず、連鎖的に結びつけられうるものであるということであり、そうである以上、1973年の映像はフィクションじみたものとして錯覚されるべきではないということだ。「崩壊」は、決して過去の遺物ではない。