2016年11月27日日曜日

ラテンビート映画祭 / LBFF(後編)



④クリストファー・マーレイ『盲目のキリスト』El Cristo Ciego(チリ、フランス、2016)

 クリストファー・マーレイはサンティアゴ出身、新進気鋭の若手監督だ。この映画以前にも、いくつかの作品を撮影しているが、単独での監督作品は本作が初。主演のミカエル・シルバを除いて、映画に登場する全てのキャスティングには、実際にストリートに暮らす人びとを起用したのだという。当日のティーチインでは、最も影響を受けたシネアストとして、パゾリーニとロベール・ブレッソンの名を挙げていた。
 マイケル(ミカエル・シルバ)は、チリの寒村、ラ・ティラナで技師として働いている。彼は自身をキリストと信じ込み、親友マウリシオにその掌を釘で打たせた過去を持っている。ひょんなことからその親友が怪我をして動けなくなっていることを知ったマイケルは、遠く僻地に暮らす彼に会うべく出立する。自分には奇跡を起こす力があると信じて疑わない彼は、その掌でマウリシオを治し、救おうと考えたのである。長い旅の道中で、貧しく暮らす路上の人びとと出会い、彼らを助け、時には彼らに助けられながら、マイケルはついに親友の許へと辿り着く。果たして、そこで奇跡は起きたのか……?
 チリの映画を観ていると、身体が欠損した人びとがたびたび登場するのに気がつく。その最たる例が、アレハンドロ・ホドロフスキーの作品群だろう。まあ、彼の場合はメキシコを舞台にした『サンタ・サングレ』においても両腕を欠いた女性を中心に据えているので、これは個人的なオブセッションと言えるかもしれない。けれども、『リアリティのダンス』の冒頭における不具の人びとの集団は印象的だろうし、ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)の両腕が硬直する事件などはプロットにおいても重要な役割を担っている。自分のものであったはずのものがない、あるいは動かない。身体の喪失。アレハンドロ・ホドロフスキーはそういった欠如を描くことで、そこにあるはずのものを鮮やかに浮かび上がらせるのである。
 さて、『盲目のキリスト』のマウリシオも脚の自由が利かない存在である。この障害の理由としては大きく分けてふたつの可能性が予想できるだろう。ひとつめは、危険な炭坑での作業に従事した労働者が何らかの事故に見舞われ、障害を負ったという仮説。ふたつめは、1973年のクー・デタ以降の拷問による後遺症。マウリシオの場合は前者であることが作中で明示されている。僻地に独り残され、何処へも行けないマウリシオはただ日々をじっとやり過ごしている。ここに描出されるのは、『ゴドーを待ちながら』の世界のようでもある。ゴドー Godot という名前が英語の God + フランス語の縮小辞 -ot であることから、ゴドーを神の比喩とする推測は広く知られるところであるが、『盲目のキリスト』において焦点が当てられるのは、待つ側の人間(すなわちエストラゴンとヴラジーミル)ではなく、迎えに行く側のマイケル(≒キリスト)である。すなわち、「ゴドーを待つ」のではなく、ここでは「ゴドーが行く」のだ。この点において、『盲目のキリスト』はベケットのそれとは一線を画す、能動的な世界であることがわかる。
 アリエル・ドルフマンは自叙伝『南に向かい、北を求めて――チリ・クーデタを死にそこなった作家の物語』(飯島みどり訳、岩波書店、2016)で「esperanza[ルビ:エスペランサ] 希望の語はそもそも待つ[エスペラル]ことを旨とし」ていると書いているが、この映画において、希望を抱いているのは待つマウリシオではなく(何故なら彼は自分の脚が治るとは微塵も思っていないし、親友が向かっていることすら知らされていないのだから)、むしろマイケルの方である。マイケルは奇跡など起るはずがない、と周りの人間に嘲笑されながらも、希望を持って親友の許へと急ぐのである。しかるに、本作で描かれているのは、〈希望〉という概念における構図の大転換――受動的な〈希望〉から能動的な〈希望〉へ――である……などと邪推できるのかもしれない。果たして奇跡は起きたのか、という問題は別として。

⑤ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン『名誉市民』El ciudadano ilustre(アルゼンチン、スペイン、2016)
『ル・コルビュジエの家』El hombre al lado(アルゼンチン、2009)でタッグを組んだふたりの新作である。脚本はアカデミー賞外国語映画賞にも出品された。トレイラーがこちら。東京国際映画祭でも上映されていた。
アルゼンチン出身の作家ダニエル・マントバーニ(オスカル・マルティネス)がノーベル文学賞を受賞するシーンからこの映画は始まる。反権威主義的な思想の彼は授賞式で、「この賞を受賞したことで自分は作家として没落のフェイズに突入した」などと講演して、場を凍りつかせる。ノーベル賞作家となったことで、彼のもとには世界各地から講演の依頼が舞い込む。そのなかのひとつに、彼の故郷サラスからの手紙があった。いわく、名誉市民賞を彼に授与したいとのことだ。長年ヨーロッパに暮らし、数十年も帰省していなかった彼は郷愁にかられ、サラスへと出向くことにする。
 しかし、愛すべき故郷でダニエルを待ち受けていたのは、文字通り偏狭な田舎の人びとであった。ダニエルの小説に登場する人物を自分の父親だと信じて疑わない青年、サラスで幅を利かせている芸術アカデミーの会員、障がい者である息子のための寄付をねだりにやって来る父親……彼は自分の裡に美化されたサラスとその実情とのギャップに戸惑う。とりわけ、彼を困惑させたのはかつての恋人が自分の親友と結婚していたという事実である。ダニエルとサラス市民との軋轢はしだいに反響・増幅してゆき、破滅的な終局を招くこととなる。
 これはもう、文句無しに面白かった。そもそもアルゼンチンからノーベル文学賞作家が出た、という設定自体が壮大な自虐でもあり、笑いを誘う。けれども、作中のダニエルはいかにも「ノーベル賞作家らしく」描かれており、その演出が実に巧みだ。彼の自宅の書斎や、噺を物語るトーン、サラスの市民に対する姿勢などのディティールが、ちくいち「ノーベル賞作家」らしい雰囲気を醸し出しているのだ。
〈気まずい人間関係〉を描くことに関して、このふたりの監督の腕は比類がない。都市に暮らす人びとの隣人トラブルに焦点がおかれた『ル・コルビュジエの家』と対比されるように、『名誉市民』では因習、あるいは既得権益に凝り固まった地方の人びとが姿が映し出される。そこへ投げ込まれたダニエルはいかにも見せ物のように扱われ、同時に地方の社会秩序を乱す危険因子でもある。おりしも、日本での公開と前後してボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、それに対してバルガス=リョサがこんな発言をしていたこと※もあって、文学賞のありかたそのものにも一石を投じるようなフィルムとなっている。

※件のバルガス=リョサの発言は「来年は(ノーベル文学賞を)サッカー選手にでもやるのか?」という部分だけが恣意的に抜き出されると誤解を招きかねないので、いちおう補足しておく。「ボブ・ディランは自分の好きな歌手のひとりである」と述べたうえで、バルガス=リョサは「現代社会では、政治も文化も、見せ物(スペクタクル)に成り代わってしまっている」と警鐘を鳴らし、ディランの受賞に対して懸念を抱いているのである。

⑥パディ・ブレスナック『VIVA』(キューバ、アイルランド、2015)
 ハバナに住む美容師の青年ヘスス(エクトル・メディナ)は、ドラッグ・クイーンのオーディションに合格し、舞台に立つこととなる。そんな彼のもとに、幼時に生き別れた父親アンヘル(ホルヘ・ペルゴリア)がやって来る。元ボクサーの父は、殺人の罪で投獄されていたのだった。アンヘルがヘススの家に転がり込むかたちで、父と子はぎこちない共同生活を始める。暴力的な父親アンヘルは息子ヘススに娼婦まがいの仕事を辞めさせるが、自分は働きもせず酒浸りの日々を過ごしている。父への反発と思慕の狭間で揺れ動くヘススは、ある日、アンヘルの口から彼が出所した本当の理由を聞かされる……。
 この作品でまず注意を引くのは、親子に与えられたいかにも意味有りげな名前だろう。ヘスス(Jesús)にしてもアンヘル(Ángel)にしても、スペイン語圏では一般的な名前ではあるが、この映画における父と子の名前にキリスト教的なコノテーションが含まれていることは明らかだ。作中では、ベッドに横たわるアンヘルを足下から捉えたショットが確認できるが、これはマンテーニャの『死せるキリスト』をあからさまに彷彿させる。
 一方で、『VIVA』はクイア問題を正面から取り扱ったフィルムでもある。1961年の〈3Pの夜〉以降、キューバでは〈男色〉Pederastas、〈売春婦〉Prostitutas、〈ポン引き〉Proxenetas が厳しく取り締まられるようになり、摘発された者は、名ばかりの更生施設に収容され、強制労働に従事させられた。そうした暗い状況のキューバから生まれてクイア映画の金字塔となったのが、『苺とチョコレート』Fresa y chocolate(キューバ、スペイン、メキシコ、1994)であった。そして、なんと、『苺とチョコレート』にホモセクシャルの男性ディエゴ役として出演したホルヘ・ペルゴリアが、本作『VIVA』ではマチスモの権化ともいうべきボクサー上がりの父親アンヘルを演じているのである。これは配役の妙と言うほかない。
 確かにこの映画では、ホモセクシャルの息子ヘススと、強権的な父親アンヘルの対比が鮮やかに描き出されている。が、特筆すべき点は他にある。この映画が文字通りスポットが当てているのは、ヘススの〈声〉なのだ。ヘススはけばけばしい衣装に身を包み、ドラッグ・クイーンとしてステージに上がる。そこで、彼は楽曲に合わせて口パクのパフォーマンスをするのである。つまり、舞台上でのヘススには自身の〈声〉がない。ここで暗示されてるのは、キューバ革命が生み出した「サバルタンは語ることができるか」という問題である。この場面だけを抜き出せば、ヘススは語るべき〈声〉を持たない存在として映し出されている。
 しかし一方で、ヘススがキャバレーに戻れるよう、父親との離縁を勧める雇用主の提案に対して、彼ははっきりと断りの姿勢を見せ、父親と暮らすことを宣言してもいる。親子の関係において、彼はこの上なく明朗に、自分の意志を語るのである。
『VIVA』はキューバのクイア問題をめぐる最新版レポートであるといってよいだろう。果たして、ヘススは自らの〈声〉で語ることができるようになったのだろうか?