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2014年4月14日月曜日

Casa del Lago②/José Emilio Pacheco

 ホセ=エミリオ・パチェーコは実にマルチな作家だなと思う。
 いちばん知られている作品はやはり、Las batallas en el desierto『砂漠の戦い』だろう。確か、日本にいる時にいちど『ラテンアメリカ五人衆』というアンソロジーで見かけたのだった。ここでの五人衆というのは、マリオ・バルガス=リョサ、オクタビオ・パス、シルビーナ・オカンポ、ミゲル・アンヘル=アストゥリアス、それにホセ・エミリオ=パチェーコ。その半年後くらいに故あって、メキシコで原文で読んだ。確か、彼の死去が報じられたのはその直ぐあとだったように記憶している。しばらくはどの書店でもパチェーコの作品が平積みされていた。UNAMの哲文学部の前の露店でも売られていた。絵に描いたような(洒落ではなく)アメリカ人女性の挿絵が真っ赤な表紙に、映えていた。この作品に関しては、内容を書くのも今更な感じがするので当時のノートの走り書きを覗いてみる。

・中東戦争=砂場
・『卒業』、『スタンド・バイ・ミー』、『今を生きる』
・americanización, burbuja económica, compulsión de repetición
・No existía "Adolescencia" en 1980
・Miguel Alemán (El primer presidente del PRI)
・Industrialización/Modernización
・Desarrollo estabilizador, "Milagro mexicano(~1970)"
・Lo pasado es siempre mejor que lo del presente
・Mariana, representación de la Rev. de la imagen de mujeres
・Nostalgia, Recuerdo, Memoria de "Narrador del presente"

だそうだ。わかるような、わからないような。ただ、「繰り返しによる強迫」というのは、"Por alto esté el cielo en el mundo, por hondo que sea el mar profundo"という一文が繰り返されていることに言及しているのだと思う。赤が引いてある。たぶん、当時フロイトとか読んでたんだろうな。
 それから本文では、日本との関係が示唆されている部分、時代が限定できる要素、アメリカの影響が見られる点、諸外国が参照されている点などに赤が引いてある。えらい真面目に読んでいたみたいだ。わたしもカルロス同様に、記憶を辿ってみた次第である。



 ここからが本題なのだが、今回は新たに短編を3つ読んでみた。ひとつめはEl viento distante「遠き風」。僅か2ページの短編なのだけれど、なんだか不気味な雰囲気が漂う作品。おそらく、筋を書こうとするとネタバレになってしまうのでやめておく。現実の世界と非現実的な世界が、衝突することなく併存している、という点は特筆するべきところかもしれない。ファンタスティックな世界は、人間の知覚だけで創り出せるのだ、魔術なんて必要ないぞ、というお話?

El mundo real y el mundo irreal se mezclan en el espacio especial (la feria) sin que se choquen porque los dos personajes (los conservadores de la realidad) salieron del mundo irreal sin darse cuenta. Es decir, el mundo consiste en la percepción de alguien.
Cf. Choque de García Márquez

 ふたつめはParque de diversiones「気晴らしの公園」という短編。これは面白かった。いわゆる動物寓意集。アレゴリックな内容で、カフカやオーウェルがジャンルとしては近い気がする。

 最後がLa luna decapitada「首を斬られた月」。これはある意味ノンフィクション歴史小説。オブレゴンがMancoという呼称で呼ばれていたり、ある程度のメキシコ革命に関する知識が必要かもしれない。

 Las batallas en el desiertoは青春小説として読むことができると思う。前述したとおり、El viento distanteは幻想小説、Parque de diversionesは動物寓意もの、La luna decapitadaは歴史小説とカテゴライズできる。加えて、ホセ=エミリオ・パチェーコ、どうやら翻訳家としても働いていたらしく、サミュエル・ベケットやオスカー・ワイルドの作品も訳している。もともと、詩人肌なところもあるようだし、ジャンルの多彩さからもっと注目されてもおかしくない作家だと思う。これから、邦訳も進むだろうか。というわけで、マルチな作家だなあと。


2014年4月12日土曜日

Casa del Lago①/Daniel Espartaco Sanchez

1月の終わりから、少しずつ読んできたカサ・デル・ラゴ世代の作家をぼちぼちまとめ始めようと思う。手始めに、ダニエル・エスパルタコ・サンチェスの短編をふたつ。



1)América

メキシコ中流家庭で育った「ぼく」が幼少期を回想している。家族構成は、「ぼく」、妹、父親、フリア(「ぼく」は決して、彼女を母親と呼ばない)。ある夏の日に、一家は新車のヴォルクス・ワーゲンのセダンでテキサス州はエル・パソへと買い物に出かける。ショッピングモールに到着し、父親は好きなものを買いなさい、と「ぼく」と妹に50ドルを渡す。服なんかが良いんじゃないか、と父親には勧められたものの、「ぼく」はその50ドルを漫画に使い果たしてしまう。ところが妹はその50ドルで自分が欲しいだけのおもちゃを買い、それとは別にフリアに洋服も買ってもらっていたものだから「ぼく」は何ともやりきれない。駄々をこねて父親に新たに53ドルを貰い、「ぼく」は洋服屋へと向かう。そこで、ズボンとシャツとTシャツを買おうと決めるのだが、お金が足りない。「ぼく」は試着室に入って、Tシャツのタグを引きちぎり、お腹に隠して万引きしようと試みる。試着室にはFitting rooms area is under video surveillanceと書いてあったが「ぼく」にはFittingとsurveillanceの意味が分からなかった。試着室を覗きに来た父親が事態を察し、悲しげに「そんなことをする必要はない。尊厳を失ってはいけない」と諭し、「ぼく」が選んだ洋服の支払いを済ませる。「ぼく」のポケットにはには手つかずの53ドルが残った。



 筋だけをざっと追ってみれば、何の変哲もないオートフィクション(?)なのだが、随所で示唆される時代背景と、米墨間の歪な関係がこの小説を読み応えのあるものにしている。
 思春期の回想、中産階級家庭、などの特徴から、この短編を読んで、ホセ・エミリオ・パチェーコのLas batallas en el desierto(『砂漠の戦い』)を連想するのは、まっとうな感覚だと思う。この短編の時代背景は、冒頭に記された「にわか景気」bonanzaという用語や、湾岸戦争以降、ソ連崩壊以前、その他諸々の手がかりから、おおよそ1990~1995年ごろだと推測できる。一方、『砂漠の戦い』はというと、ミゲル・アレマン政権下の工業発展に沸いた時代であるから、1946~1952年。ということで、ふたつの作品の間には40~50年の隔たりがある。クロノロジカルにこのふたつの短編を比較してみるのも面白いのではないか。
 さて、前述したとおり、メキシコ人の男の子が主人公なのだが、どうやら彼の父親はかつて共産主義者としていささか過激に活動していたらしく、警察にお世話になったこともあるようで、ソ連からやってきた父の友人と「ぼく」とのやり取りが面白い。「いつの時代にもおいても、偉大な作家というものはロシア語で書いたのだ」と主張するソ連の友人に、「ぼく」は「英語は未来の言語だ」と反駁するのである。「ぼく」は、米国の雑誌やハリウッド映画を観て英語を独学で勉強している。英語が話せるということには、彼のみならずでなく妹やフリアも何となくステータスを感じているようで、「ぼく」は気になる同級生マリア・デル・カルメンの前で、Me voy de shoppingなんてスパングリッシュを話している。エル・パソへの旅行中にも、「ぼく」は今こそ培ってきた英語の見せ所だ、と鼻息を荒くするのだが、国境検問所でも、ハンバーガー・ショップでも、ことごとくスペイン語で話しかけられてしまい意気消沈するのであった。かような英語への盲信と憧れがありながらも、父親の影響からか、子供ながらに米国を 「パナマやイラクのような国々を侵略し、サルバドール・アジェンデのような政府を転覆させたヤンキーども」と認識している節もある。こういう、メキシコ人の「資本主義大国アメリカなんて大っ嫌い!でも米国カルチャーは愛してる!」みたいなメンタリティは、オクタビオ・パスの評論に書いてあった気がする。一方で、父親は英語を介さないものの、試着室の警告は直感で理解していた。No smokingの警句に戸惑いを感じていたり、試着室の場面でも「私生活は監視できない、と奴らに言ってやれ」とこぼしたりと、ある種、静かな抵抗者として描かれているようにも思う。
 15ページ程度の短い作品ではあるが、様々な構図がみてとれる。fantásticoやら、lo maravillosoの温床であるラ米文学の樹海にあって、こういう家族ものにあたると何となくほっとするな。



2)Jardín

 この短編に至っては、4ページしかない。内容も実にシンプルだ。



「ぼく」が妹と留守番していたら、庭にダチョウがいた。



 試しに、ダチョウとの邂逅シーンを少し翻訳してみよう。
*****

 テレビと本のイラスト以外では、直接見たことなんてなかった、バラの木の横で、庭からぼくの方に頭を曲げたそのダチョウの話を、ぼくはしているんだ。1メートル以上もぼくの上にある、卵のような頭、気持ち悪いきめをした皺の寄った首、それからおばあちゃんがミサに行くために使っていた洋服みたいな黒と灰色の羽毛。ダチョウは親しみやすい種類だと思われているけれど、そいつは攻撃的な動物に見えた。ぼくはパニックというものを感じて、ドアを閉めた。
「どうしたの?」ルシーアが尋ねた。
「庭にダチョウがいるんだ」

*****

 ひょっとしたら動物ものには弱いのかもしれない。コルタサルの『パリにいる若い女性に宛てた手紙』もそうだったが、読んでいてニヤニヤしてしまう。



メモ

1990~1995年にはまだビデオカセット(VHS)がメディアの媒体として活躍していた
この短編において、セダンはメキシコのマキラドーラで製造されていた
言語(カルチャー)の勢力図とナショナリズム、またその分布図は国境とは一致しない
グローバリゼーションの中にあって、米墨国境の越え難さ Cf.『2666』