2016年9月26日月曜日

"Jealousy" de William Faulkner, une analyse a la Roland Barthes


 ウィリアム・フォークナー William Faulkner(1897-1962)は、20世紀のアメリカ文学を代表する作家である。長編小説には『響きと怒り』The Sound and the Fury(1929)や『サンクチュアリ』Sanctuary(1931)、『アブサロム、アブサロム!』Absalom, Absalom!(1936)などがある。南部の黒人世界や暴力の発露を、「意識の流れ」と呼ばれる実験的な手法で描き出した。フォークナーの作品ではしばしばヨクナパトーファという架空の土地が舞台に設定されており、それらの小説群はヨクナパトーファ・サーガの総称で呼ばれることもある。また、「エミリーにバラを」"A Rose for Emily"のようなゴシック色の強い作品も多数残している。1949年にはノーベル文学賞を受賞した。
 短篇「嫉妬」"Jealousy" は、1925年に書かれた初期の作品である。後に短篇集『ニューオリンズ・スケッチ』New Orleans Sketches(1955)に収録された。「嫉妬」には主要な登場人物が3人いる。まず、アントーニオと妻。ふたりは飲食店を経営しているが、夫婦仲は上手くいっていないようで、冒頭でも客がみているのも憚らず口喧嘩をしている。もうひとりの登場人物はこの飲食店で働く若いボーイである。アントーニオは妻とボーイの関係を怪しんでいた。ある日、アントーニオはボーイを呼び出して真相を問いつめる。ボーイは妻との関係を否定するが、アントーニオは納得せず、話し合いはもみ合いになって終わる。アントーニオと妻は、新たな町へと引っ越して、そこで心機一転やり直すことを決める。飲食店はボーイが譲り受けることとなった。出発が間近に迫ったある日、ボーイはアントーニオの妻に餞別を贈りたいと申し出る。ボーイとアントーニオは連れ立って骨董品へと出かけていく。ボーイが商品を物色している間に、アントーニオは店内で小型のピストルをみつける。アントーニオは彼に背を向けていたボーイに向けて発砲し、射殺する。

1.行為のコード
 この短篇は主人公の妻が編物をしている場面から始まる。夫アントーニオは苛立った様子で「また編物かね?」Knitting again, eh? と尋ね、妻は顔をあげる。まなざしに関連する行為は以下のように続く。妻がボーイを見る(「女はおつりを出すと、ボーイをちらっと見やった」)、ボーイがアントーニオを見る(「ボーイは彼女の夫の顔をのぞくように見て」)、妻がアントーニオを見る(「彼の妻は頭をあげ、冷たい眼で夫のようすをながめた」)、妻がまわりの客を見まわす(「彼女はすばやくあたりを見まわした」)、まわりの客が怒るアントーニオを見る(「シッ! みんな見ていますよ」)、アントーニオが辺りを見渡す(「その視線はテーブルからテーブルへとさまよい」)、ボーイが辺りを見渡し、妻を見る(「青年の視線が部屋をずっと走って、しばし彼女の夫君の顔の上におちた」)、妻がアントーニオを見る(「女は頭をもちあげ、夫の眼をじっとまともに見すえた」)、アントーニオが星空を見上げる(「ひろがった星空をじっと見つめ」)、商品を眺めているボーイにアントーニオがピストルでねらいをさだめる(「いまは無心で物をながめている男にねらいをさだめ」)。「嫉妬」において、アントーニオはつねに視線を向けられる側の存在であり、彼自身がまなざしを他者に向ける場面はほとんどない。アントーニオの視線が星空を除いてはどこにも向けられていないことはきわめて重要である。
 また、唯一その例外といえるのが、アントーニオが商品を物色しているボーイを後ろから撃ち殺すクライマックスの場面である。アントーニオが「殺してやるぞ!」と恫喝すると、ボーイは「うしろからでもかからないかぎり、あなたにはそんな勇気はなさそうですね」と返す。その直後、アントーニオは「そうだ、おれには勇気がないのだ!」「自分自身にも自分の妻にも面とむかうことのできないのがよくわかっていた」と独白する。以上のような段階を踏んで、まなざしを向ける行為は次第に暗示的な意味合いを帯びるとともに緊張の度合いを増し、結びのアントーニオがピストルで照準をさだめるシーンへと収束するのである。

2.含意のコード(コノテーションのコード)
 先に述べたように、「嫉妬」の冒頭では妻が編物をしている。これは極めて女性的な作業といえるが、アントーニオの妻はなぜ、誰のために編物をしているのだろうか。彼女は以前「ちっちゃな赤い部屋」little red room で編物をしていたという。この部屋の表現は子宮を暗示しているとも考えられる。こうした示唆的な描写からは出産をひかえた女性が、赤ん坊のために編物をしている姿が連想できるが、ふたりには子どもがいない。このことが夫婦の不和に繋がっているとすれば、どちらかの生殖能力に欠陥があるためではないか。さらに「年百日中」編物をしているとアントーニオに揶揄される妻は、『オデュッセイア』のペーネロペイアをも彷彿とさせる。『オデュッセイア』では、夫が不在の間に求婚されたペーネロペイアは返答を先延ばしにするため、編んでは解きを繰り返している。「嫉妬」における求婚者とはボーイである。このように、編物をめぐる描写には夫アントーニオとの不和、そしてボーイとの密通という不穏な事件が暗示されている。

3.文化のコード
 作中で言明はされないが、「ええ、あなた(ルビ:カロ・ミオ)」Caro mioや、「ねえ、トーノ(ルビ:トーノ・ミオ)」Tono mioなどのアントーニオと妻が交わす台詞からは、ふたりがイタリア系の移民であろうことが分かる。そもそも、アントーニオという名前自体がイタリア系の出自であることを表しているし、彼がかつてのシシリー島での暮らしに思いを馳せるシーンも作中で確認できる。物語の舞台がどこであるかは明されていないが、イタリア系移民は19世紀の終りごろから本格的にアメリカ合衆国へと移住してきた。彼らの多くは出稼ぎ労働者として北米へやってきたが、定住を余儀なくされるケースも少なくなかったという。当時のイタリア系移民は他の白人に比べて収入が少なかったとも言われている。こうした文化的背景からは、アントーニオとその妻が社会的ヒエラルキーの下部に位置しており、疎外感を感じているであろうことが推測できる。事実、アントーニオは半ば精神病に侵されている。彼が妻に新しい町へと移ることを提案しても、彼女はそれに反対しない。「嫉妬」では、アントーニオとその妻を通じてアメリカ合衆国におけるイタリア系移民の姿が描き出されている。

4.象徴のコード
 アントーニオとボーイは極めて対照的に描かれている。「背が高くて、若いローマの神さまみたいに美男」で「上背のある」「しなやかで上品なからだつき」のボーイと、「ずんぐりと肥満した」「どっしりとした図体をしている」「中年」で「ふとった醜い男」であるアントーニオ。これが「嫉妬」における第一義的な対立である。こうした肉体的な描写のみならず、ふたりは態度のうえでも比較することが可能である。笑顔を浮かべて「すばやく、手ぎわよく動きまわり、親切に、能率的にたち働いてい」るボーイと「見知らぬ客には卑屈な外面を装った尊大な態度で対応したり」、「そっけないことばで返答したり」するアントーニオ。こうした象徴からは、好感をもって社会的に受け入れられているボーイと疎外されているアントーニオという構図がみいだせる。さらに妻とアントーニオに関しても「まだ若く」美しい妻と、老齢にさしかかりつつあるアントーニオという対象が明示されている。つまりここではボーイ⇔アントーニオと妻⇔アントーニオというふたつの項が反目している。
 こうした対立は容易に発見できるだろう。しかしここで、色という視点に着目するとアントーニオは明らかに赤を象徴している(「憤りのために頬を真っ赤にして」、「とつぜん細い真っ赤な血の筋が、指のあいだから手の甲ににかけて走った」)。一方で、アントーニオの妻は黒を象徴しているものと思われる(「彼女の浅黒い卵型の顔」、「漆黒の髪の毛」、「黒いくろいあの髪の毛」)ものの、先に引用した「ちっちゃな赤い部屋」や「その赤い口もと」といった描写もみられる。ふたりは赤と黒という対立する色を象徴しながらも、夫婦としてくらしている以上ある程度の赤を共有している。ボーイは明らかに白を象徴している(「その眼には白い、皮肉な微笑がひらめいた」「顔にうかんだ、白い、意味のない微笑」)。赤と白は混じりあわない。ところが驚くべきは後半部にあらわれる描写である。ボーイの「白い、不気味な彼の笑いはこれまでと変りがなかったが、その浅黒い顔にチカッと光る歯が、なぜか相手の憤りをさそう力を持っており、自分ではすでに眠ってしまったと思っていた以前の怒りと恐れの念をふたたびかきたてるのだった」。いままで白一辺倒で表象されてきたボーイに、ここで突然黒が入り込む。と同時にアントーニオの心にふたたび嫉妬の炎が燃え上がるのである。つまり、ここでアントーニオは妻の誇るべき黒色をボーイのなかにも発見し、ふたりが共謀している可能性に気づくのである。そして、アントーニオは最後に「赤い炎の一閃」でボーイを撃ち殺し、真っ赤な血で彼を染め上げるのであった。色を媒介とする三者の対立が「嫉妬」では鮮やかに描き出されている。

5.謎のコード(解釈関係のコード)
 簡潔な筆致で書かれ文量も多くない「嫉妬」には、それほど謎のコードが用いられているわけではない。とはいえ、この短篇を読み始めた読者の頭を真っ先によぎるのは、タイトルとして採用されている「嫉妬」”Jealousy”の謎であろう。誰から誰に向けられた「嫉妬」なのか。物語の筋からして、これは当然アントーニオからボーイへと向けられた嫉妬であると推測できる。ところが、物語の終りに至って新たな謎が浮かびあがってくる。
 アントーニオと妻は新しい町へと移り、心機一転そこでやり直すことを決める。ボーイはアントーニオと一緒に、彼の妻への餞別を選びにいく。そこで、アントーニオは突然ボーイを背後から撃ち殺してしまうのである。「あしたになれば、自分はどこかよその土地に去ってゆき、おそらくふたたび、この男を見ることもないだろう」と自分に言い聞かせているにもかかわらず、なぜアントーニオはボーイを撃ったのだろうか。理由はいくつか考えられるだろう。まず、アントーニオが精神衰弱に陥っていたという理由。このことは作中でも明らかにされている。また、ボーイが妻に贈り物をし、それが新居に持ち込まれるのをアントーニオが拒んだのだとも考えられる。しかし、この場合はボーイの申し出を断ればよいだけの話であって、何も撃ち殺す必要はないだろう。結局、アントーニオがボーイを撃ち殺した理由は分からないまま、物語は終わってしまう。この謎の解釈は読者に委ねられているのである。

文献:
バルト、ロラン、1973、『S/Z バルザック「サラジーヌ」の構造分析』、沢崎浩平訳(みすず書房)
フォークナー、ウィリアム、2013、「嫉妬」『フォークナー短編集』、瀧口直太朗訳(新潮社)


2016年6月30日木曜日

活弁上映のアウラ


フリッツ・ラング『メトロポリス』(1926、ドイツ)の活弁上映@シネマート新宿を観てきた。1920年代、電燈に明かりが灯ったばかりのドイツで上映された映画を、その90年後、「不夜城」新宿で観るというのもなかなか可笑しい。2時間近くにおよんで途切れることなく声(七色の声? それ以上だ)をあて続ける活動写真弁士の佐々木亜希望子さんももちろんすごかったが、音楽を担当していたピアニストの永田雅代さんの演奏もこれまた名人芸だった。本来はサイレント映画なのだということを上映中に一度ならず忘れるほどだった。7月にはアルフレド・ヒッチコック『マンクスマン』の活弁上映もやるらしい。

活動写真弁士の語りを始めて聞いたのは、「キューバの映画ポスター」展@東京国立近代美術館フィルムセンターを観に行ったときのこと。そこの常設展で、活動弁士の声が入ったフィルムを流していたのだった。目当てのキューバ映画ポスターの特別展もなかなかおもしろかったのだが(ジミ・ヘンドリックスのアルバムのごときビビッドな色合いの『白鯨』のポスターには眼を奪われたし、『低開発の記憶』のポスターがカルロス・サウラの兄、アントニオ・サウラの手によるものだったことなどは新事実だった)、こちらの常設展も引けをとらないものだった。溝口健二のデスマスクや、『カチューシャ』と題されて上映されたトルストイ『復活』の当時のポスター(これには「露國文豪トルストイ翁原作」との文字が添えられており、上映は驚くべきことに1913年。日露戦争の直後だ)などは一見の価値があるのではなかろうか。

また、今回の『メトロポリス』の直前に、「複製技術と芸術家たち――ピカソからウォーホルまで」@横浜美術館にも足を運んでいたものだから、活弁上映を「アウラの再獲得」という文脈でとらえてしまうのも仕方がない。実際、弁士の方も会場の雰囲気に合わせてアドリブで台詞を入れるなどしており、あれは観客と作品のまさに仲介者ともいうべき絶妙な存在だったように思う。横浜の展示は、あたかもベンヤミンのテクストをなぞるように時代を進んでいくものだった。ピカソのリトグラフからはじまり、マティスの切り絵、エル・リシツキーの『プロウン』、エルンストのコラージュ、デュシャンのレディ・メイド、そしてリキテンシュタインと展示品は並び、中盤辺りから「やっぱり抽象芸術はキツいな……」と帰りたくなっていたのだけれど、最後のウォーホルの作品に添えられた「広告とは、複製芸術にアウラがあるかのようにみせかけることである」(うろ覚え)という一文にはどこかはっとさせられるものがあった。


と、『メトロポリス』を機に思い出された展示会をいろいろと書き並べてみた。「間展示性」などとでも呼べるのだろうか?


2016年5月20日金曜日

ガボの足跡を辿る


初夏の香りが漂い始めると、どうしても彼のことを思い出してしまう。それはたぶん、シャツが汗ばみだす季節に彼は生まれ、そして死んだのだという意識がぼくにあるからだろう。
映画『GABO〜ガルシア=マルケスの生涯〜』(2015、スペイン)を青山学院アスタジオで観てきた。会場で配られた抽選券の裏面には『生きて、語り伝える』の一節がプリントされていて、素敵だ。生地アラカタカに始まり、『予告された殺人の記録』の舞台ともなったスクレ、学生生活を過ごしたボゴタ、『大佐に手紙は来ない』のような極貧生活を送ったパリ、『プレンサ・ラティーナ』の記者として赴いたニューヨーク、『百年の孤独』の語りを思いついたというメキシコシティ、後の「プニェタソ」事件で袂を分かつこととなるバルガス=リョサと親交を深めたバルセロナと、ガボの移動の足跡を作家フアン・ガブリエル・バスケスが辿ったドキュメンタリー風の映画だ。それと平行する形で、ガボをよく知るひとたちによる証言と作品の朗読がインサートされている。彼との思い出を語るのは、弟のハイメ、妹アイーダのほか、ガボの伝記の作者ジェラルド・マ—ティンや盟友プリニオ・アプレーヨ・メンドーサ、エージェントとして〈ブーム〉の作家を支えたカルメン・バルセルス、元アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンなどだ。若い頃ガルシア=マルケスと半同棲生活を送っていたという女優タチ・キンタナの回想などは貴重だと思うし、ガボが当時大統領だったクリントンにキューバへの経済封鎖解除を進言していたという事実はあまり知られていないのではないだろうか。小説家としてだけでなく、ガブリエル・ガルシア=マルケスの記者としての側面を強調し、それをパブロ・エスコバール時代のコロンビア麻薬戦争問題を主題とする作品『誘拐の知らせ』に繋げる流れもよかった。
しかしなんといってもこの映画の見どころは、ガボのユーモアあふれる発言と彼にまつわる逸話だろう。枚挙にいとまがないので詳述は控えるが、全編にわたって冴え渡る「ガボ」節は、なんだか観ていてとても心地好かった。


2015年12月20日日曜日

ガボが死んだ日


 「ガボ」ことガブリエル・ガルシア=マルケスは2014年の春、メキシコで客死した。長年アルツハイマー病を煩っており、もう新作は書けないだろうと言われていた。肺炎(?)の手術から復帰したというニュースが伝えられ、誰もが胸を撫で下ろした矢先の死だった。

 ガボが死んだとき、ぼくもメキシコにいた。確か、あれは聖週間の最中だったと思う。メキシコシティでは不穏な天気が続いていて、スコール、雷、雹、暴風、それにともなう停電や断水があり、ぼくは家に閉じこもって夕方まで寝ていた。目を覚ますと、ガボの死がいたるところで報じられていた。同居人のドイツ人が買い物から帰って来たので、彼と少しだけ、ガボの話をした。そうこうしているうちに気づいたのは、ぼくが抱いている感情が「悲しみ」とはほど遠いものであるということだった。ガボの死に際してぼくが真っ先に感じたのは「違和感」だった。ぼくがラテンアメリカ文学に触れ始めたのは、たぶん2012年の後半だったと思う。マリオ・バルガス=リョサが来日したときや、カルロス・フエンテスが死んだとき、ぼくは彼らの名前すら知らなかった。大学の講義でガボを紹介され、『百年の孤独』を読み始めたのがそのころだった。小説を通して知ったガボは、ぼくにとって紙の上の存在でしかなく、どちらかといえばフィクションに近い存在だったのだと思う。それでもガボは死んだ。その訃報がメディアに取り上げられて、ぼくはある種の眩惑を覚えた。言うなれば、現実とフィクションの境界がにわかに歪んだ感覚に陥ったのだった。


 ガボの死から一週間後、ベジャス・アルテス宮殿で葬儀が行われた。メキシコ人の友人に連れられて行ってみると、すでにそこには長蛇の列ができていた。隣に並んでいたいおじさんはずっとガボの住んでいたペドレガル地区の歴史を話して聞かせてくれた。遠くでは作家のハビエル・ベラスコがテレビの取材に受け答えをしていた。ぽつぽつと雨が降り始めると、いつものようにどこからともなく売り子がやってきて、商魂たくましく傘や合羽を行列に売りつけていた。

 4時間ほど並んだころ、列の動きが止まった。周りの話を盗み聞きすると、どうやらペーニャ・ニエト大統領がやってきて、ガボの遺灰の前で演説を行っているらしい。友人は「Así es México.(これがメキシコだよ)」と言って笑っていた。しばらく経って、列が再び動き始めたころ、あたりはもう暗くなっていた。ぼくらはもう宮殿の入り口近くまで来ていた。ふいに、建物のほうから歓声があがった。視線を上げると、ライトに照らされた黄色い蛾が空一面、ひらひらと舞っていた。それはかつてマコンドを覆い尽くした、あの蛾になぞらえて切られた大量の黄色い折り紙だった。しばし人々は疲れを忘れ、列を乱して、蛾を追いかけまわした。「Así es México, también.(これもまた、メキシコだね)」と言ってぼくらは笑った。

 すべての蛾はもはや重力に負け、その死骸は地面を黄色く彩った。興奮冷めやらぬうち、列の前方がざわめきだした。どうやら大統領が、ガボの遺灰を持ち去ったらしい。明日、母国コロンビアで行われる弔事に間に合うよう、今夜中に空輸しなければならないのだという。にわかに群衆は暴動と化した。列はぐいぐいと進み、人の波に流されて、ぼくらは守衛の立つ宮殿の入り口に漂着した。沸き立つ怒号は、次第に統一された歌に変わった。「Queremos ver a Gabo, Gabo, Gabo...(ガボに会わせろ、ガボ、ガボ……)」

 結局、列は半ば押し入るようなかたちで宮殿に足を踏み入れた。宮殿の階段下には引き延ばされたガボの肖像写真があり、その横にはフィデル・カストロからの献花が供えられていた。分かっていたことだが、すでにガボはそこにいなかった。参列者は立ち止まることを許されず、それらを視界の隅で確認するのが精一杯だった。宮殿を出ると、庭では子供たちが黄色い蛾の死骸を巻き散らかして遊んでいた。ぼくと友人は駅前の屋台でトルタを食べ、地下鉄で帰った。

2015年11月30日月曜日

死はしらふで、明るい目をしている


 少し前にピーター・グリーナウェイ監督『エイゼンシュテイン・イン・グアナフアト』を観てきた。ラテンビート映画祭のラインナップのひとつだったのだけれど、東京上映を逃してしまい、横浜まで足を延ばした。

 のちにDVD化もされるであろうこの映画を遠路はるばる観に行く理由がひとつあった。それは、小耳に挟んでいたかなり「エグい」映画だという前情報による。ぼくはこの映画を劇場で、しかもモザイク無しで観たかったのである。

 さて、評判に偽り無しといったところで、全編にわたってきわどいシーンがちりばめられている。この作品は『戦艦ポチョムキン』(1925)などで知られる映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが未完の大作『メキシコ万歳』を撮影するため訪れた、グアナフアトでの10日間を描いたもの。エイゼンシュテインに関しては門外漢なのだが、彼の功績にはモンタージュ理論の確立などがある。ここで、詳しく解説してくださっている方がいるようだ。

 グアナフアトはメキシコ中部に位置する、パステルカラーの街並みが美しいコロニアル建築の都市だ。2・3日あればまわれてしまうような小規模な街なのだが、観光名所は数多く、フアレス劇場、ピピラ像、ミイラ博物館などがある。

 そんなグアナフアトでエイゼンシュテインを出迎えるのが、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ。時代は1935年。1910年代を革命に費やし、1920年代の壁画運動を経て、メキシコではこの翌年の1936年に金字塔的な映画作品『ランチョ・グランデへ急げ』が制作される。映画産業が黄金期へと突入していく、まさにその前夜のメキシコをエイゼンシュテインは訪問したのである。

 先にも述べたように、冒頭から目を瞑りたくなるような描写が続くのだが、ひとつ印象的だったのが、エイゼンシュテインがひとり晴天のテラスで酒を煽り、ぐでんぐでんになるシーンだ。酩酊状態で地下坑道に迷い込んだ彼が、チャップリンに貰ったという一張羅の白スーツを吐瀉物まみれにするシーンなどはグロテスクというほかない。小綺麗に生きる術を身に付けた我々の目には、それが一種の映像的カタルシスにも映る。真っ青な屋外からの湿った地下への移動は、観客にもその息苦しさを錯覚させる。そのめまぐるしさに我々自身がほろ酔いになったような心持ちさえする。

 しかし、なんといっても見どころはエイゼンシュテインの「貫通」シーンだろう。内気なエイゼンシュテインがガイドのパロミーノによって陥落され、純白のシーツの上で、後ろから攻められるのだが、その画には一種の神々しさすら感じる。無事に(?)洗礼を済ませたエイゼンシュテインの肛門にパロミーノはミニチュアの旗を立て、「革命おめでとう」と囁く。ホモセクシュアルの性交を実に鮮やかに、そしてシンボリックに描いているという点だけでもこのシーンは卓抜していると思うのだが、ホルヘ・ネグレーテを彷彿とさせるようなダンディであるパロミーノと、自分の肉体を恥じているエイゼンシュテインの対比も良い。そういえば島田雅彦の『彼岸先生』でも、先生はメキシコで処女を喪失するのだが、これは単なる偶然ではなく、ひとえにメキシコのステレオタイプともいえるマッチョ信奉(マチスモ、男性優位主義と言い換えても良い)から生じるものだと思う。レイナルド・アレナスの『夜になる前に』を参照しても分かるように、男性対男性の征服―被征服という構図がラテンアメリカには、ある。

 ロシア人であるエイゼンシュテインが、目の当たりにしたメキシコは途方もなく異色のもので、それこそ彼にとっては「革命」であったのかもしれない。ガルシア=マルケスはある小説を読んだときの衝撃を「貞操帯を外された思いがした」と語っているが、時として、我々は未知のものに触れたときの衝撃を性的解放に換言するのである。エイゼンシュテインにとっては、そのふたつが渾然一体となって襲ってきたような感覚だったのだろうかと邪推してしまう。

 二人が墓地を散歩するシーンがある。死者の日の直前ということもあり、墓は色とりどりの華や笑う骸骨で飾られている。ミゲル・イダルゴやパンチョ・ビージャ、エミリアーノ・サパタなど、死者に思いを馳せ、パロミーノは呟く。「ここでは、死はしらふで、明るい目をしている」と。

 美と醜。そして、生と死。そういった、我々が目を覆いたくなるようなものをこの映画は実に雄弁に語っている。

2015年10月13日火曜日

『砂漠の街』


 先生がぼくの住む街を訪れる、という知らせを受け取ったのは丁度一週間前のことだった。ちょっとした用事があるので、少し会わないか、君の下宿先の目の前の路地で待ち合わせよう、と手紙には書いてあった。約束の時間に路地に出ると、先生がいた。少なくともぼくがここに越してきて以来、路地に違法駐車されたままの60年代風の真っ赤な自動車に先生は背を預けていた。砂ぼこりの中、長年眠り込んでいた車体の光沢は、とうの昔にこの街に奪われていた。黒服に山高帽を被った先生は相変わらずのギョロ目と痩身で、ぼんやりとパイプを吹かしていた。
「ご無沙汰しております」
「久方ぶりだね。どうだい、調子は。この街で暮らす君の身は案じてもいたのだけれど、いかんせん暇がなくてね。ついつい手紙もサボりがちになって、すまなかった」
「相変わらず、よく解らないことをしてはよく解らない人たちに怒られてる夢を見ています」
「そうかい。息災ならそれでいい」と先生はそっけなく言った。
先生の見た目は、ずいぶんと若く見えた。先生は都市に住むことを許された人間だから、いつまでも溌剌としていられるのだろうか。この砂漠の街で暮らしていると、時々自分の年齢が解らなくなる。みな、服や紙に砂塵が付くのを厭ってほとんど外出をしないので、他人と顔を合わせることも稀である。かくいうぼくもどれくらいぶりに下宿から出たか定かではない。息災なことには違いないが、誰もが死んでいるように生きているのだ。
「それにしても、久しぶりだ。君に会うのもそうだが、この街に来たのは実に20年ぶりだよ。まあ、立ち話もなんだ、早いところ僕の方の用事を済ましてしまって、飯でも食おうじゃないか。付き合ってくれるかな?」
「勿論です」
「じゃ、行こうか」
そう言うと、先生は上着のポケットからジャラジャラと音を立てながら鍵束を取り出した。先生はその中の一つを迷いなく選んで、自動車の鍵穴を回した。
「これ、先生の車だったんですか? ずいぶん前から、ここにありましたけど」ぼくは思わず尋ねた。
「20年前からここに停めてあるよ。ぼくがまだ学生で、この街に住んでいたころ、友人と金を出し合って買ったんだ。ジャンク品だったから、買った状態ではほとんど動かなかったのだけど、どうにか修理してね。その時、ついでに色も塗ったんだ。もとは透き通るような水色だった」
「20年も。よく撤去されなかったですね」
「されないさ。この街では変わろうとしないものはいつまで経っても変わらないんだ。まあ、砂まみれになってはいるけど。さあ、乗って」
 先生に促されて、後部座席に乗り込んだ。ドアを開けたとたんに、車の内部に潜り込んでいた砂が久しぶりの外気に触れてつかの間、騒ぎを起こした。砂を払ってどうにか一人分の座席を確保して腰掛けると、つま先に何かが触れた。拾い上げてみると、それは一冊の本であった。表紙も背表紙も炭化してしまっていて、題名は判読できなかった。ぼくはそれをトランクに放り投げた。
「ところで、今日はどちらに?」と訊くと、
「ある工場に行くんだ。ある本をこの世から消そうと思って」と先生は振り向かずに答えた。
車は故障もしていないらしく、エンジンをかけるとそろそろと走り出した。道中、会話はなかった。ぼくはぼんやりと考え事をしていた。後部座席というのは不思議な空間だなと思った。どこかへ向かっていることは確かだが、行き先を決めるのは自分ではない。それはたとえ後ろ向きのままでも、生きてゆける空間に思えた。遠くには革命記念塔の頭が見えて、街路には山茶花が咲き乱れていた。
 車が停まる。どうやら着いたらしかった。先生は運転席を降りて、車の後ろに回りトランクを開けるとぼくが放り投げた本を拾い上げた。
「待っていてくれ」と言い残して先生は工場に向かった。車内の埃っぽい空気から逃れたかったので、ぼくもドアを開けて降りた。手持ち無沙汰になって上着のポケットを手で探ると、煙草の箱がふたつ出てきた。「曙光」と「地下室」という名前の煙草だった。「地下室」の箱から一本取りだして、マッチで火を点けた。頭上に浮かんだ煙は、いったんカメレオンのような形を作ったかと思うと数秒後には文字通り霧散した。遠目からは、先生が戸口で技師らしき男と話しているのが見えた。先生は技師の話に相づちを打ちながら腕時計を外し、それを彼に手渡す。技師は書類に何か書き込み、ちぎって先生に見せる。先生は本を小脇に抱えたまま、踵を返してこちらに戻ってきた。
「煙草、一本貰える?」
ぼくは「曙光」のえんじ色の箱から一本抜いて先生に差し出した。
「どうなりましたか」
「この砂の本はどうも対象外らしくてね。まあ、仕様がない。君にあげる」
手渡された本をまじまじと眺めて、ぼくがこの本を読むことは恐らくないだろうと思った。60年代風の車の中で砂にまみれていた本なんて、内容がどうあれ、この時代には似つかわしくない。先生の咥えている煙草の先からは、尋常でない量のどす黒い煙が流れ出て、周囲の風景を濁らせていた。
 煙を手で払って、ふと顔を上げると、先生の傍らに浮浪者じみた男が立っていた。男の顔には靄がかかっていて、その輪郭と表情は判然としなかった。男の右手には柄も刃も銀色に鈍く光るハサミが握られており、その切っ先をこちらに向けると、男は小声で言った。
「時計を寄越せ。さもなければ、貴様の目玉をくりぬく」
ぼくらは思わず駆け出し、角を曲がったところにあった映画館に逃げ込んだ。切符は買わなかった。奇妙なことに、男二人が息急いて駆け込んできたというのに、観客は凝とスクリーンを見つめ続けてているのだった。まだ慣れない暗闇の中で眼を細めると、彼らがマネキン人形であることが解った。スクリーンには膝を抱えて海を見つめる少年と少女の背中が映し出されていた。不意に映画館の隣には共同墓地があって、薄暗いプレハブ小屋の中で三匹の黒猫がじゃれあって蛾を殺している映像がぼくの脳裡に浮かび、その瞬間、この状況が抜き差しならぬものであることを理解した。間を置かず、男が肩を揺らしながら入ってきた。ぼくと先生の前で立ち止まると、男は黙ってハサミを突きつけてきた。ぼくは破れかぶれになって、もう素直に時計を渡してしまおうと思い、左腕に目線を移し、ふと思い出した。ぼくの時計は随分前から電池が切れていて、針が止まったままだったのだ。すると今度は急にぼくはそわそわした気持ちになって、どうしたらいいか解らなくなってしまった。差し出すべきものが手元にあるのに、おそらくそれは役に立たないと思うと途方もなく切なくなった。内蔵を圧迫されたような心持ちで、男の眼の辺りを見つめると、「そんなら要らん」と男は吐き捨てるように言った。僕は胸を撫で下ろしたが、問題は先生だった。さっきの工場で先生は修理工に自分の時計を渡してしまっていた。ところが先生は慌てず、ポケットを探り、金色の懐中時計を差し出した。男はそれを奪うと、早足に逃げていった。
 映画館を出て、ぼくは先生に尋ねた。
「どうして二つも時計を持っていたんですか」
「この街ではよくあることだからね、うん。用心して持ってきておいたんだ」
「時計泥棒がですか」
「そうだよ。さあ、用事は済んだ。約束通り、飯でも食いに行こう。このあたりでどこかうまいところ、知らない?」
先生はあっけらかんとした顔でぼくを見つめた。
「ぼくにはこの街のことが、よく解りません」
 ぼくは今にも泣き出しそうだった。

ユートピアはいずこ


 ホセ・ムヒカが「世界一貧しい大統領」というフレーズで最近やたらとメディアに取り上げられるようになった昨今。ホセ・ムヒカ氏は若かりしころ極左ゲリラ組織「ツパマロス」に参加し、社会主義革命を目指したものの、独裁政権下で投獄され10年以上収監された。2010年3月から2015年2月までウルグアイ大統領をつとめる。有名な2012年リオ・デ・ジャネイロでの演説がこちら。ここまでが基本情報。

 昨日も同氏へのインタビューがNHKで放送されていた。ムヒカ氏の基本的な思想は「ハイパー消費社会」の否定。「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」とし、「カードの支払いに追われる人生など馬鹿げている」と主張している。日本社会に対しても、経済発展を評価しながらも「信用を勝ち取るためには着物を捨て、ネクタイを締めなければいけなかった」と、その精神性の変化に疑問を投げかけた。

 また、同氏は「国家の指導者は多数決で選出されるのだから、多数派と同じ生活をするべきだ」とし、給与の90%を慈善団体に寄付し、自身は10万円以下で生活している。消費社会に疑問を投じ、行動を自身の第一原理とした政治家なら、ほかにもいる。例えば、フィデル・カストロだ。しかし、彼の行動はあくまで理想主義的なものがあって、鉄人フィデルだからこそ可能であろう行動や規範を市民にも課してしまった。そこにキューバ革命政権が瓦解を始めた要因の第一歩があるような気がする。一方、ムヒカ氏は自身の行動を市民に合わせているのだから、無理がない。ありもしないユートピアを目指すのではなく、現状をユートピアに近づけてゆく。ムヒカ氏の政治理念で、評価すべき点はまさにここにあるのではないだろうか。

 だからこそ、日本人(もとい日本及び欧米先進諸国のメディア)が諸手を挙げてムヒカ氏を絶賛するのはかなり違和感があると思うのですよね。社会が日本のように高度に経済化・インターネット化してしまったからには、もう引き下がれないというか、今更「クレジットカードを焼却し、日本人よ、みなキモノに戻ろう!」などと言い出そうものなら、それこそナンセンスというか、時代錯誤も甚だしい発言で、ちょっと危ない思想の持ち主と思われること間違い無しです。部分的にはムヒカ氏の反ハイパー消費社会思想を見習うところもありつつも、その理念を鵜呑みにしてはいかんと思うのです。

 さて、あくまで文化的側面を考えれば、ウルグアイは決して貧しい国とは言えない。かのボルヘスも「タンゴの起源はウルグアイにある」とどこかに書いていたし(出典未確認)、ガウチョ文学 La literatura gauchesca もウルグアイ文学の主要な文学ジャンルのひとつだ。19世紀の後半には幻想小説の巨匠オラシオ・キローガ、20世紀にはフアン・カルロス・オネッティやマリオ・ベネデッティなどの大家も輩出している(ただし、その大半が後に亡命し、国を離れている)。

 ムヒカ氏の思想に共通するものは、ウルグアイに古くから根付いてるものだと言えなくもない。20世紀の前半にはすでにホセ・エンリケ・ロドーが『アリエル』で物質主義を批判しているし、歴史家エドゥアルド・ガレアーノもその著作で米国による経済搾取を広く論じている。ムヒカ氏の手によって、ウルグアイの希求したユートピアは100年ののち結実の目をみている……のだろうか?